パキスタンの政治における混乱状態は民主主義の歴史上そこまでめずらしいものではないが、最近の政府と軍の関係はますます問題になっていると言えそうだ。2018年の総選挙で改革を公約に掲げ政権を獲得したポピュリストのイムラン・カーン首相は、2022年4月の不信任案によって首相の座を明け渡すこととなった。この出来事は、公式には憲法上のプロセスとして語られる。しかし、軍の干渉やアメリカ政府の関与が告発されたことにより、国内外での議論が巻き起こっている。
カーン氏の突然の政権離脱以来、パキスタンでは国内外で、その政治体制の在り方と民主主義の規範と原則を遵守しているかを厳しく監視・批判されてきた。政治情勢が変化し続けているが、重大な疑問が残る。 カーン氏の失脚以降、政治はどのように展開してきたのか?これらの展開はパキスタンの政治的未来にどのような意味を持つのか?さらに言うと、パキスタンの政治システムを完全に理解するためには、軍が果たした影響力を認めざるをえない。
パキスタンの軍は、歴史的に国の政治状況を形成する上で重要な役割を果たしてきた。それはしばしば政治的に機能する機関として見なされるが、その動きはあまり目立ったものではない。2018年に首相に選出されたカーン氏もその例外ではない。一般的に、軍の後ろ盾は彼の成功の重要な要因だったと見られている。この長期にわたる影響力の存在により、パキスタンの民主政治の未来は疑問を投げかけられている。したがって、民軍関係を見直すことは、政治への軍の関与の度合いを見極めるために必要である。本記事では、パキスタンの民主的制度とその強力な軍事組織、そして国家の脆弱な政治的軌跡を規定し続ける同盟関係の移り変わりと、その間で進行中の闘争を探る。

パキスタンの首相官邸、イスラマバード(写真:Usman.pg / Wikimedia Commons[CC BY-SA 3.0])
民軍関係の概要(1947-2024)
1947年の独立以来、パキスタンは文民政府と軍部との間で激動の時代を過ごしてきた。軍の関与はしばしば支配的な役割を果たす。軍はクーデターや直接統治、水面下での干渉などを通じて国の政治的方向性に影響を与えてきた。軍が政府を直接掌握したのは4度あり、4人の軍指導者が合計33年間国のトップを務め、その間に3つの文民政権を追放した。
パキスタン独立後の最初の10年間は、政治的不安定、脆弱な文民政府、頻繁な指導者の交代が目立った。1951年のリアクアト・アリー・カーン首相の殺害や、複数の政権の解散により民主主義制度は弱体化した。この間、アユーブ・カーン将軍率いる軍が徐々に影響力を持つようになり、1958年にフェロズ・カーン政権を解散させた後、パキスタン初の軍事クーデターを起こした。
アユブ・カーン将軍は戒厳令を制定し、パキスタン初の軍事政権となった。彼は中央集権的な統治と経済改革を導入したが、反対の声が高まった。大規模な抗議の中、アユブ・カーン氏は1969年にヤヒヤ・カーン将軍に政権を譲った。 1970年に選挙が行われ、東パキスタン(現バングラデシュ)のシェイク・ムジブル・レーマン氏の政党であるアワミ連盟が最多議席を獲得した。この結果に対する西バングラデシュの抵抗が西パキスタンと東パキスタンの紛争につながり、1971年にバングラデシュが独立した。この紛争での軍の失敗により、同年、軍将校の反乱が起こりヤヒヤ・カーン氏は政権から追われた。ズルフィカル・アリー・ブット氏の下で民政が復活した。
ズルフィカル・アリ・ブット率いるパキスタン人民党(PPP)の政権は、文民統治を強化することを目指したが、軍部との摩擦は依然として激しかった。1977年に選挙操作の疑惑が持ち上がった後、ジア・ウル・ハク将軍が3回目のクーデターを引き起こし、軍事政権の再確立となった。ジア将軍は戒厳令を敷き、憲法を破棄し、独裁的な統治を行った。1980年代、ジア政権はイスラム法を導入し、パキスタンがソ連・アフガン戦争に積極的に参加することで、国内における軍の影響力をさらに強固なものにし、大きな転換を遂げた。1988年、謎の飛行機墜落事故によるジア氏の突然の死は、文民統治の再確立を促した。
1988年から1999年にかけて、パキスタンはベナジル・ブット氏(故ズルフィカル・アリー・ブット首相の娘)が指導するPPPとナワズ・シャリフ氏のパキスタン・イスラム教徒連盟・ナワズ(PML-N)の間で政権が入れ替わり、政治的激変に見舞われた。両指導者は、軍事介入、汚職疑惑、政情不安など、任期を全うする上で大きな困難に直面した。政府と軍の衝突が頻発し、民主主義制度が弱体化したため、軍部優位であることは明らかだった。最終的に1999年、ペルベス・ムシャラフ将軍はナワズ・シャリフ首相の失政を非難し、同国4度目のクーデターを起こし、パキスタンは再び軍政下に置かれた。
1999年から2008年まで、ムシャラフ将軍は軍事独裁者としてパキスタンを統治し、9・11のアメリカ同時多発テロ事件後のアフガニスタン侵攻とその余波の中アメリカと緊密に連携した。ムシャラフ将軍は、経済成長とインフラ整備をもたらしたが、政治的抑圧と市民の自由に制限を強めた。2007年になると、特に弁護士運動を中心とする反対運動と司法活動が高まり、ムシャラフ氏は陸軍総司令官を辞任するよう圧力をかけた。難題が山積する中、ムシャラフ氏は最終的に2008年に辞任し、民政復帰への道が開かれた。
2008年から2018年まで、パキスタンでは文民統治が行われたが、軍の影響力は依然として強いままだった。2008年から2013年の間、アシフ・アリ・ザルダリ氏(故ベナジル・ブット首相の夫)率いるPPP政権は大統領として任期を全うすることができたが、国家安全保障と外交政策の重要な決定は軍の監視下に置かれたままだった。2013年、ナワズ・シャリフ氏が首相に返り咲いたが、軍との関係は徐々に悪化した。緊張がピークに達したのは、2017年のパナマ文書スキャンダルを受け、最高裁が同氏を失脚させたときだった。この動きは軍部の後押しがあったと広く受け止められていた。軍が決定的な役割を果たし続ける体制の中で、文民指導者が権威を主張しようとする長年の構図が浮き彫りとなっていた。
パキスタンの歴史上幾度となくクーデターが画策され、そのうち4回のクーデターは成功した。それだけでなく、軍は文民統治下においても、文民官僚や主要な社会組織に浸透することで一貫して統治に影響を及ぼしてきた。文民側では、パキスタンは、最後のイムラン・カーン氏を含めいわゆる22人の民主的に選ばれた首相が交代したが、だれひとりとして5年の任期を全うした人はいなかった。ナワズ・シャリフ氏やベナジール・ブット氏といった著名人も、それぞれ何度も首相の座に就いたが任期を全うことができなかった。何人かの首相は4年間、他の首相も少なくとも3年間務めることができたが、7人の暫定首相も任命された。また5人の首相が軍事大統領の下で務めた。

ナワズ・シャリフ元首相(2014年)(写真:MEAphotogallery / Flickr[CC BY-NC-ND 2.0])
軍の指導者任命に関する問題
パキスタンの憲法では、首相は陸軍参謀総長(COAS)や国家情報部(ISI)の長官(DG)など軍の主要指導者を任命する権限を持っている。しかし、軍の政治的影響力が大きく、他の政治的利害関係者からの圧力が意思決定プロセスを形作ることが多いため、こうした人事はしばしば争点となる。歴史的にも、軍は国の政治状況を支配しており、文民政府の影に隠れていることが多い。そのため、COASとDG-ISIの人選は、軍と文民の指導者間のパワーバランスに影響を与える極めて重要な決定とみなされている。
首相はしばしば、軍事組織と政治的利害関係者の双方に受け入れられる軍事指導者を任命しなければならないという圧力に押され、政治的緊張、策略、不安定を招くことがある。リアクアト・アリー・カーン首相(1947-1951)は民軍関係に苦慮し、アユブ・カーン将軍をパキスタン独立後初の最高司令官に任命した。ズルフィカル・アリー・ブット首相(1973-1977)は、他の上級将校に代わってジア・ウル・ハク将軍をCOASに任命したが、1977年のクーデターでジアが彼を打倒したため、この決定は裏目に出る結果となった。ベナジール・ブット首相(1988~1990年、1993~1996年)は、ISI総局の解任をめぐる衝突など、両任期で軍の干渉に直面した。
ナワズ・シャリフ首相(1990〜1993年、1997〜1999年、2013〜2017年)は、1993年にCOASのワヒード・カカール将軍と対立し、1998年にムシャラフ将軍を任命したが、彼は後に1999年のクーデターでシャリフ氏を追放した。また、2016年にはCOASの任命をめぐって衝突が起こった。ユサフ・ラザ・ギラニ首相(2008-2012年)は、2011年の「メモゲート」スキャンダルをめぐってCOASやISI総司令官と衝突した。このスキャンダルは、オサマ・ビン・ラディン氏が殺害された米軍による急襲事件を受けて、首相が軍による政権乗っ取りを阻止するためにアメリカに助けを求めたことが発端となっている。イムラン・カーン首相(2018~2022年)は2021年、ISI総司令官の人事をめぐる問題が公開論争に発展し、COASが彼の人選に反対したため、2022年に政権を追われる結果となった。
こうした度重なる緊張状態は、パキスタンにおける文民指導者と軍部の間のパワーバランスの脆弱さを浮き彫りにしている。

1999年に軍事クーデターを起こしたパルヴェーズ・ムシャラフ氏(2005年)(写真:US Navy / Wikimedia Commons[Public domain])
多くの首相が、実力に基づく決定ではなく、政治的な動機に基づく決定を行ったり、物議を醸すような軍部の人事を行ったりして、反響を浴びた。イムラン・カーン氏やナワズ・シャリフ氏に見られるように、決定の遅滞や突然の変更は、依怙贔屓だとか軍の干渉だとかの疑惑を引き起こし、これらの決定の論争的性質を明確にした。軍指導者の任命は、国民やメディアによって綿密に調べられ、しばしば首相の独立性と軍の影響力を問う議論が行われる。このような論争は、民軍関係を緊張させ、透明性への疑念を煽り、政治的安定性を損ない、文民と軍機関の間の脆弱なパワーバランスをさらに不安定にする。
透明性の高い選考プロセスは憶測を呼ぶ。一方で、一歩間違えれば政府を不安定にしかねないため、軍の歴史的な政治的役割はその関係性を強調している。このような人事は、透明性と説明責任を高める要求とともに、ますます政治色を強めている。軍部は実力主義を主張し、干渉を否定しているが、実際人事決定は民軍間の権力闘争を反映し、政治的かけ引きは続いている。首相には憲法上の権限があるにもかかわらず、軍の影響力が定着していることがプロセスを複雑にしており、緊張と国民の懐疑心を煽るばかりである。
パキスタン軍の経済的重要性
パキスタン経済は危機的状況が続いており、国際通貨基金(IMF)との何十億米ドルもの資金取引が、表向きには経済安定化のために行われている。この危機は、軍部を後ろ盾とする貪欲なエリートによる数十年の堕落を反映したものである。一方、軍はさまざまな分野にまたがる数十億米ドル規模の企業を保持している。軍の経済的支配は独立直後から始まり、カラコルム・ハイウェイやフロンティア・ワークス機構(FWO)の設立などがその例である。
今日、ファウジ財団やアーミー・ウェルフェア・トラストのような軍が運営する複合企業体が、不動産、製造、住宅などの主要部門においては支配的な存在である。これらの事業体は納税を免除されており、民間企業よりもかなり有利な立場にある。例えば、国防住宅局(DHA)は当初、軍人に住宅を提供するために設立されたが、今では数十億米ドル規模の巨大不動産会社に発展した。こうした組織以外にも、軍は銀行、運輸会社、セメント、肥料、穀物工場など、膨大な企業ネットワークを運営している。

DHAの管理下にある住宅地、カラチ市(写真:King Eliot / Wikimedia Commons[CC BY-SA 4.0])
商業事業に加え、軍は学校、病院、工業事業を運営しており、その投資総額は200億米ドルにのぼると推定されている。軍が所有する企業はパキスタンの国内総生産(GDP)の7%、製造業の3分の1、民間部門の資産の7%を支配している。軍はまた、国有地の13%を所有する国内最大の土地所有者であり、住宅開発業者としてもトップに立っている。
退役後の軍幹部たちの福利厚生
退役後の幹部軍人は、しばしば「胎内から墓場まで」のケアと呼ばれる広範な福利厚生を受けている。ファウジ財団は、何百万人もの退役軍人に再定住と再就職の機会を提供している。給付金には、無料の医療、年金、教育補助、低価格での住宅用地や商業用地が含まれる。上級将校は、政府から給与を支給される職員や軍の駐屯地での便宜施設の利用など、さらなる恩恵を享受している。これらの恩恵は、民族的・宗教的背景に影響されているわけではないが、軍人の75%がパンジャブ州を出身としており極度に集中している。
その恩恵は、兵役後の雇用にもみられる。退役後の軍幹部は、統治や行政に対する影響力があるため、知名度の高い民間職に任命されることが多い。軍幹部の退役後の雇用は合法ではあるが、その影響力を使って、特に住宅建設や関連事業で雇用者の利益を図る場合、利害が衝突する懸念が生じる。さらに、退役軍幹部はしばしば大学、シンクタンク、政府で重要な役割を担い、「国家の救世主」としての軍隊のイメージを強めている。退役したにもかかわらず、多くの上級将校が政治に大きな影響力を行使し続けており、文民と軍の境界が曖昧になり、パキスタンの政治・経済情勢における軍の影響力が常態化していることを示している。
シンド州、パンジャブ州、バルチスタン州などの州知事として州行政を監督する役割もある。退役幹部はまた、アメリカ、中国、サウジアラビアなど戦略的に重要な国の大使を務めることも多い。さらに、パキスタン国際航空(PIA)、水・電力開発庁(WAPDA)、その他の主要機関を含む国有企業の指導者にも任命される。また、退役幹部の中には、国家安全保障アドバイザー(NSA)や連邦大臣に任命される者もおり、特に国防関連省庁ではその専門知識が重宝されるのである。

パルヴェーズ・ムシャラフ氏の公用車(2006年)(写真:D. Myles Cullen, U.S. Air Force / Wikimedia Commons[Public domain])
パキスタンで退役軍人が文民の役割に任命されたことで、政治、経済、教育分野での影響力の大きさが浮き彫りになり、文民領域への軍の行き過ぎた介入についての議論が巻き起こっている。批評家たちは、これは民主主義制度を弱体化させ、文民優位を弱め、文民と軍部の関係を曖昧にすると主張している。しかし、退役将校は指導者として規律、経験、効率性をもたらしうると主張する支持者もいる。
このような人事決定を明確に禁止する法的規制はないが、透明性や文民統制に対する懸念は根強い。近年では反発もあり、過去数十年と比べるとこのような人事はわずかに減少している。それにもかかわらず、この慣行は依然としてパキスタンの民軍関係の重要な側面であり、行政に対する軍の永続的な影響力を反映し、国の政治・行政の構造を形成するものである。
イムラン・カーン氏の隆盛
イムラン・カーン氏は、クリケットの伝説的選手であった非伝統的な政治家出身で、1996年にパキスタン・テヒリーク・エ・インサフ(PTI)を設立し、正義、説明責任、汚職撲滅を提唱して政治の道を歩み始めた。しかし、1997年の総選挙でPTIは1議席も獲得できなかった。2002年の選挙ではミアンワリで1議席を獲得したが、党は政治的に弱体なままであり、ムシャラフ政権に抗議して2008年の選挙をボイコットするなどした。2011年の大規模集会でPTIは勢いを増し、彼の反汚職の主張が若者や中産階級の共感を呼んだ。2013年の選挙では、全国レベルでは及ばないものの、PTIは得票数で第2党に浮上し、カイバル・パクトゥンクワ州で州政府を樹立した。
2013年の選挙後、カーン氏は選挙不正の疑惑に対して継続的な抗議運動を展開し、2014年にはイスラマバードで126日間にわたる座り込みを主導した。この運動は直ちに選挙上の成果をもたらさなかったものの、PTIをパキスタンの主要な野党として確立させることとなった。国民の支持の高まりと与党PML-Nへの反発がPTIの追い風となり、2018年の選挙で勝利を収めた末、カーン氏はパキスタンの首相となった。多くの分析家は、彼の勝利には軍の支援が重要な役割を果たしたと考えている。

イムラン・カーン氏及びPTI党の支持者(2016年の政治集会)(写真:King Eliot / Wikimedia Commons[CC BY-SA 4.0])
当初、カーン政権は反汚職の姿勢や「新しいパキスタン」を築くための経済改革の公約によって支持を集めた。しかし、彼の政権は経済低迷やインフレなど、特にパキスタンの財政状況に関する失政の批判などの課題に悩まされることとなった。
イムラン・カーンの失墜
カーン政権は、経験と計画の不足により、深刻な統治上の矛盾に直面した。例えば、経済への対応はカーン政権に大きなダメージを与えた。COVID-19パンデミック時の経済停滞のため、カーン氏は4人の財務相を6回も入れ替えたが、いずれも経済を復活させることはできなかった。また、カーンは、無能と言われたウスマン・ブズダル氏を、人口密度が高く重要な州であるパンジャブ州の首席大臣に抜擢したことで支持を大きく低下させた。ブズダル氏の業績は州行政全体に悪影響を及ぼし、カーン政権に大きな打撃を与えた。
緊張状態が特に顕著になったのは、対外関係、特にアメリカやアフガニスタンとの関係に関する重要な政策決定や、軍が推していた要職の候補者を承認しようとしなかった際などである。時が経つほどカーン氏と軍との間の溝はより深くなり、特に軍とアメリカの安全保障問題に関しては顕著であった。2021年6月のアメリカのジャーナリストとのインタビューで、「アルカイダ、ISIS、タリバンに対する国境を越えた対テロ作戦を実施するために、アメリカ政府がパキスタンにCIA(米空軍基地)の駐在を許可するか?」という質問に対し、カーン氏はその考えを否定し、「絶対にしない 」と答えた。カーン氏の断固とした姿勢は、軍事体制への直接的な挑戦と見なされた。この姿勢はカーン氏の在任中の決定的な瞬間となり、軍の体制との亀裂を強調するものとなった。

アメリカのマイク・ポンペオ国務長官(左)とイムラン・カーン首相(中央)(2018年当時)(写真:US Department of State / Wikimedia Commons[Public domain])
そして2022年3月、カーン氏は外国が彼を政権から引きずり降ろそうとしている証拠を掴んだと主張した。この証拠とは、アメリカによる政府への圧力を示すとされる外交公電(サイファー)であることが明らかになった。後に、この公電に名を連ねていた米政府高官は、この主張を「虚偽」だとして否定した。この政界の嵐が吹き荒れた1ヵ月後、2022年4月にカーン氏は不信任決議で政権を追われた。
退任後、カーン氏は汚職疑惑で逮捕され、政治的勢いは大きく衰退した。これはパキスタンで全国的な抗議行動のきっかけとなり、彼の支持者と法執行機関との衝突を引き起こした。2023年8月、彼は国の贈答品を違法に販売した罪で有罪判決を受け、3年の禁固刑と5年の公職失格処分を受けた。また、機密外交電報の不正処理の疑いで起訴された。汚職疑惑に関わる別件でも、2025年1月に14年の実刑判決を受けた。さらにカーン氏は、自身の政治活動や抗議行動に関連したテロリズム、扇動、法廷侮辱など、その他多数の罪に問われている。
投獄され、公職に就くことを禁じられているにもかかわらず、カーン氏はパキスタンの政治状況において影響力の強い人物であり続けている。彼のポピュリスト的な魅力と反体制的なレトリックは、特に若者の間で国民感情を沸き立たせ、政治参加と説明責任の重要性を強めている。2年間延期されていた総選挙は、2024年3月にようやく実施された。カーン氏の政党は、公式に「PTI」という党名とその象徴的な選挙シンボルである「クリケット・バット」の使用を禁じられたが、カーン氏が支持する候補者が最多議席を獲得し、カーン氏の根強い影響力を象徴する結果となった。しかし、カーン氏の起訴は彼の支持者の間で広範な抗議を呼び起こしたが、この抗議活動は当局に厳しく弾圧された。数千人が逮捕され、警察との衝突で多くの負傷者が出ており、この国で進行中の政治的混乱と二極化がより露になっている。

2018年の総選挙で投票する女性(写真:Commonwealth Secretariat / Flickr[CC BY-NC 2.0])
パキスタンの民主主義の行方
直接的なクーデターから舞台裏での工作に至るまで、パキスタンの軍部は政治における重要なプレーヤーであり続けている。文民政権が支配権を主張しようとする一方で、軍は国家の安全保障、外交政策、統治に影響力を持ち続けており、真の民主主義の確立は永遠の課題となっている。軍部は通常、舞台裏で強力な役割を担ってきた。パキスタンの政治的不安定が放置されてきたのは残念なことだが、その一因は軍が統治に関与し続けてきたことにある。しかし、文民政府もまた、しばしば汚職や不始末に巻き込まれ、効果的な成果を上げることができなかった。この軍の干渉と文民の無能力という二重の失敗が機能不全の連鎖を生み、この国の民主主義の進歩と統治を損なっている。
イムラン・カーン氏の失脚は、パキスタンの民主主義に関する議論を再燃させた。批評家たちは、不信任案やカーン氏に対する政治工作に見られるように、軍の影響力が民主主義制度を弱体化と不安定さの原因であると主張している。カーン氏は、政治的事件から解放される代わりに現状を支持することを求める軍部からの取引とされるものを拒否しており、反抗的姿勢を維持している。彼の解任が軍の干渉の結果なのか、それとも民主的な是正の結果なのかは、まだ見解の分かれるところである。しかし、はっきりしているのは、このエピソードがパキスタン政治の分極化を深め、軍が依然として中心的な役割を果たしているこの国における民主主義の将来について重大な問題を提起しているということだ。
この激動する政治情勢の中でパキスタンは前進するが、その民主主義の将来についての疑問は依然として中心に残ったままである。政情不安の連鎖を断ち切ることができるのか、それとも次の選挙で秩序と説明責任を回復することができるのか?現政権は、シェバズ・シャリフ首相(ナワズ・シャリフ前首相の弟)とPPPのアシフ・アリ・ザルダリ大統領という2大政治的ライバルが、他の4つの政党とともに連立を組むという歴史的皮肉な構図となっている。このことは、この国の脆弱な政治構造と、軍部による根強い水面下での干渉を浮き彫りにしている。しかし、真の民主改革への希望も依然として生きている。国民の変革への願望と権力の公平な分配が今後数年間のパキスタン民主化の道筋を左右するだろう。
ライター:Sajjad Ahmed
翻訳:Kyoka Wada
グラフィック:Mayuko Hanafusa
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