クウェート:民主主義への道は途絶えたのか

by | 2024年10月3日 | Global View, 中東・北アフリカ, 政治

2024年510日、クウェートのミシュアル・アル・アフマド・アル・ジャービル・アル・サバーハ首長(以下ミシュアル首長)は、国民議会と憲法の一部停止を宣言した。これは前回、2月の国民議会解散後に行われた総選挙で、野党(※1)が過半数の議席を獲得してから、わずか5週間後の出来事だった。

エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによると、クウェートの民主主義指数は「権威主義」に分類されているが、周辺の湾岸諸国と比べると高水準で、この地域での「民主主義のオアシス」とも言われている

今回の国民議会と憲法の一部停止は、そんなクウェートの民主的側面を崩壊させうるとも指摘されている。ミシュアル首長はクウェート国営テレビにおいて、憲法の一部停止は「最長4年間続く」と述べており、この間、立法権は国民議会から首長に移譲される。

当記事では、今回ミシュアル首長が国民議会と憲法の一部を停止するに至った背景と、その影響について、クウェートの歴史を踏まえつつ解説していく。

クウェート国民議会議事堂(写真:Ignacio Gallego / Flickr [CC BY-NC-SA 2.0])

国家としての歴史

クウェートはペルシア湾の最奥部に位置し、紀元前8000年頃には人が住んでいたとされており、紀元前4000年頃から栄えたディルムン文化の中心地の一つであったと言われている。特に、ファイラカ島はメソポタミア文明とインダス文明間の中継貿易の拠点で、交易の要衝として栄えたそう。そのため、古代から中世にかけて、バビロニア、アケメネス朝、さらにセレウコス朝、サーサーン朝など大国の統治を受けていた。

17世紀になると、現在のクウェートの地はオスマン帝国に支配されることとなった。18世紀頃から、アラビア半島中央部にいたアナザ人を中心とする人々がクウェートの地に移住すると、1800年代初頭までにはインド、東アフリカからアラビア半島中央、イラク、シリアを結ぶ中継貿易の中心地へと成長した。そして、1756年には、クウェートの地はサバーハ一家の支配下となり、オスマン帝国から半自治権を獲得した。以降、クウェートの地におけるオスマン帝国の影響力は弱まった。18世紀頃から、イギリスはアジアとヨーロッパをつなぐ経由地としての中東に関心を寄せ、進出を始めていた。1899年には、オスマン帝国による直接統治を恐れた、当時サバーハ家当主を務めていたシェイク・ムバラク氏がイギリスと協定を結び、クウェートは保護国化された。これにより、イギリスはクウェートに対して、海軍による保護を提供する代わりに、クウェートは外交権をイギリスに委任する関係となった。そして、1920年代にはイギリスによって現在の国境が定められた。

1937年に、大規模な石油埋蔵量が発見され、第2次世界大戦後に油田の開発が進むと、クウェートは世界有数の産油地域となった。この頃から、1932年にイギリスから独立したイラクはクウェートに対する領有権(※2)を主張し始めており、19616月にクウェートがイギリスから独立した際にも、イラクは領有権に関して様々な要求を行ったという。イラクの脅威に対処するために、クウェートはイギリスに援助を求めると、クウェートにイギリス軍が派遣された。イラクの脅威が弱まり始めた196110月頃には、イギリス軍は撤退を初め、アラブ連盟がクウェートの保護を引き継いだ。結果的に、イギリスやアラブ連盟(※3)の反対により、イラクの領有権主張は実現されず、196310月に、イラクはクウェートの独立と国境を正式に承認した。その後も、イギリスは1971年までクウェートに近いバーレーンに軍隊を配備していた。

また、1980年から1988年にかけて勃発したイラン・イラク戦争はクウェートにとって大きな脅威となった。クウェートはイランによる支配を恐れ、イラクに財政などの支援を提供した。このイラン・イラク戦争の終結とともに、イラクとクウェートの関係は悪化し始めたとされており、199082日には、イラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争が勃発した。イラク側の主張としては、クウェートがイラクとの国境付近に位置する油田を斜めに掘り、イラクの石油を盗んでいるというものであった。また、当時、クウェートによる石油増産がイラク経済に損害を与えており、これにアメリカが加担し、イラク政権を倒そうとしていると、当時のイラク大統領サダム・フセイン氏が思い込んでいたという見解もある。他の要因としては、イラクがクウェートの有する膨大な石油埋蔵量を狙っていたことや、イラン・イラク戦争時にイラクがクウェートに対して多額の債務を抱えており、それを帳消しにしたかったことなどが挙げられている。

同月8日に、イラクはクウェートを併合し、クウェートの首長はサウジアラビアに亡命した。19911月中旬以降、アメリカ、イギリス、サウジアラビアを中心とする多国籍国がイラク軍に対する攻撃を開始し、2月下旬にイラクが撤退したことにより、クウェートはイラクの支配から解放された。また、2003年のイラク戦争において、クウェートは米軍や英軍の拠点となり、これらの軍に対して後方支援を提供した。終戦以降も、米軍がクウェートに派兵されており、現在も米軍基地が8か所存在している。

イギリス軍の攻撃を受けて炎上するイラクの戦車(写真:Uncertain (possibly Tom Johnson Nottingham, UK) / Wikimedia Commons [public domain])

政治の歴史

では、クウェートはどのようにして、民主的側面(※4)を発展させていったのだろうか。その背景として、クウェートのような湾岸諸国に見られる、ディワニヤという文化が挙げられる。ディワニヤとは政治や社会問題など多様な話題について、議論する慣習を指しており、民家や指定された場所で開かれ、主に男性が集まっている。クウェートのディワニヤは数百年前から存在しているが、従来は、社会の著名人が集まる場であった。1920年代以降、一般市民が集まる場になっており、そこでの議論は非公式な政治機関のような存在として、国民議会を監視し、世論を政治家たちに伝える役割を担っているとも言われている。

独立した19618月に、国民議会設立のための委員会が設置され、同年9月には、クウェート初の議会選挙に関する法律が制定された。その法律には10の選挙区から各2人の候補者が国民議会に選出されることや、被選挙権が30歳以上であること、アラビア語の読み書きが堪能であることも規定された。同年12月には選挙が行われ、憲法起草委員会が誕生した。翌年には新憲法の制定と共に初の国民議会選挙が行われ、1963年には初の国民議会が成立した。憲法においても、政体は民主制で、主権は国民に存すると明記されている。クウェートは世襲制の首長を国家元首とする、立憲君主制国家でありつつも、直接選挙を通じ、民意を反映させた国民議会を形成することができる点で、民主的側面を持つのである。一方で、クウェートは歴史的に国民ではなく、石油資源やイギリスの後ろ盾に依存してきた王室が中心となって統治してきたため、国家として十分に機能しているとは言えなかった。そのため、国家としての正当性や独立性を示し、対外的に国家承認されるために、国民の政治参加の仕組みを導入していたという主張もなされている。

今回のような首長による国民議会と憲法の一部停止は過去にも行われたことがある。例として、1976年における、立法府と行政府の協力欠如と議員による大臣への不当な攻撃を理由とするケース、1986年には、レバノン紛争、イラン・イラク戦争、クウェートのスンニ派とシーア派の間の緊張の高まりの中でのケースがある。いずれのケースも憲法に違反する形で国民議会が停止されたものの、国民の声や、元国民議会議員によるディワニヤでの活動を受けて、国民議会の停止が解除されたとされている。

群衆に手を振る、第15代首長サバーハ・アル=アフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ氏(写真:Kuwaitelections2012 / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])

しかし、首長による違憲の介入がなくても、国民議会の解散は頻繁に行われている。解散ので言えば、20243月時点で、2006年以降に12回、そのうち20226月以降が3回と、国民議会の不安定さが表れている。また、2010年頃、アラブ諸国に民主化運動を及ぼした、いわゆる「アラブの春」の影響を受け、201210月には同年12月に控える国民議会選挙における選挙法の改正に反対(※5)し、数万人の国民がデモに参加したという事例もある。このように、国民においても、選挙システムに対する不満が大きく浮上することもあった。

現行の政治体制

現在のクウェートの政治制度についても触れておく。国家元首は首長で、首長は国民議会の承認や選挙の開催なしに合計で最大15名の首相と閣僚の任命や、国民議会を解散する権利を有している。首長は世襲制で、その王位継承の過程について、様々な規則が存在している。例えば、ムバラク氏の子孫のみが王位を継承する権利を有していること、皇太子は首長就任時から1年以内に任命されなければならないこと、その任命の際には首長の宣言と国民議会における多数決を経ることなどが挙げられる。他にも、ムバラク氏の息子であるジャビル氏とサリム氏の家系間で権力を順番に交代させること、皇太子は年長世代から選出されることなどが慣習として存在している。

国民議会は4年ごとに行われる選挙で当選した議員50人と、首長に任命された閣僚15人の計65人で構成される一院制で、憲法上の手続きを通じて首相や閣僚を解任する権限を有し、すべての閣僚は国民議会に対して責任を負っている。内閣は首相と閣僚で構成されるが、首相は基本的にサバーハ一家が務めており、閣僚は通常、クウェートの主要な政治家や専門家、時には王族から選ばれる。そして、全閣僚の3分の1国民議会議員でなければならない。また、統治者であるサバーハ家による新しい首長や皇太子の指名については、国民議会の承認を必要としている。立法権は、国民議会と首長が有しており、国民議会は法案の提案や承認等を行う権限を持つ一方、首長には国民議会が提案した法案を承認または拒否する権限がある。憲法では政党結社が合法化されていないものの、政党なるものは存在しており、政府に対して批判的な議員が事実上の野党勢力として機能している。

国民議会選挙の投票所の様子(写真:Kuwaitelections2012 / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])

また、2005年に女性の投票や選挙への立候補が認められ、2009年の国民議会選挙において、初の女性議員が誕生した。一方で、202444日に行われた国民議会選挙で当選した女性は1人だけとなっている。

国民議会と憲法の一部停止に至った背景

国民議会議員は閣僚に対する質問権や異議申し立て権といった、他のアラブ諸国の議員よりも大きな権限を持っている。政府は法律を施行する過程で国民議会の承認を必要とするが、2000年代後半以降、国民議会の派閥間の対立が激化し、議員は政府が支持する法案を拒否し、大臣に対する批判の声を強めているため、承認を集めることが難しく、膠着状態に陥っているという。

その一例に、2017年以来、国民議会が債務発行を促進する法案を可決できない状況が継続していることが挙げられている。クウェートは主に石油の輸出で収入を得ているが、その収入だけでは支出を賄うことができず、国債などの国家財源の使用について議論されているが、その意思決定が行き詰まっているといった風である。このように、クウェートには政府と国民議会との間の緊張関係により悪化した行政の混乱という慢性的な問題が存在している。

選挙ポスター(写真:Samira Akil Zaman / Flickr [CC BY-NC 2.0])

こうした継続的な行き詰まりが今回の国民議会と憲法の一部停止につながったとされている。首長が国民議会の停止に踏み切った理由として、国民議会が権限を越えた活動を通じ、経済発展を妨げていると首長が判断したことだという指摘もあるが、首長自身は国営テレビ放送において「民主主義が国家を破壊するために利用されるのは許されない」と強調するとともに、議員を激しく批判した。同時に、首長は政界における汚職の蔓延に対しても懸念を抱いているという。実際、選挙における票の買収が一般的な慣行として行われているという調査結果汚職認識指数(CPIでは2016年以降、数値がわずかに増加し、汚職が頻繁に行われているというデータも存在する。

他にも、政府と国民議会の不調和の理由の一つとして、202012月の国民議会選挙議以降、議席を増加させている野党が、従来の政府と国民議会間のバランスを崩壊させたからだという指摘もある。

憲法の一部停止が及ぼす影響とそれに対する見解

記事の冒頭でも触れたように、今回停止された憲法条文の一つに国民議会の解散後2か月以内に再選挙を行う義務について記された条文が含まれていた。これは、停止が失効するまでの間、首長に立法権が全面的に移ることを意味している。また、ミシュアル首長の甥であるシェイク・アハメド・アル・アハメド・アル・サバーハ氏が、20244月より首相を努めているため、サバーハ家は立法権と行政権の両方を持つこととなり、事実上、国民の政治参加を排除している。

この指摘を筆頭に、今回の一連の国民議会と憲法の一部停止については、国内での報じ方は様々だった。例えば、国内のジャーナリストには、今回の首長の決定には否定的で、国民議会や憲法の一部停止期間は限定的であるべきと主張しつつ、クウェートの民主的側面を維持する重要性を強調している者がいるという。他にも、今回の一連の騒動について、クウェート国民による強い反発の声は少ないという主張も見られる。それは、国民は首長だけでなく、国民議会に対しても同時に不満を抱いていたからだという。

国外では、サウジアラビアなど、王室が強権的・独裁政権を維持しようとしているアラブ諸国から多大な支持を受けており、これらの国に近い一部メディアは、クウェートにおける民主主義の侵害に対する正当な対応とも評している。また、イラク戦争をきっかけに基地の配備等で、クウェートと強い結びつきを持つアメリカは、今回の一連の出来事に対する声明すら出していないという現状だ。独裁国家の多いクウェートの隣国が、クウェートにおける民主主義の後退に対して好意的になるのは予想通りである一方、アメリカのジョー・バイデン政権がクウェートでの民主主義の後退に対する懸念すらも公表していないのが懐疑的であるという意見も出ている。

クウェートの夜景(写真:hamad M / Flickr [CC BY-NC 2.0])

展望

今回の国民議会と憲法の一部停止は、クウェートの民主的側面を崩壊させ、これまでよりも、独裁的な体制を作り出しうるものだという見解もあれば、民主的側面を維持するための正当な対応だと評する見解もあった。一方で、専門家のほとんどはそのどちらかを判断するには時期尚早だと述べているという。例えば、クウェート大学の歴史学教授バデル・アル・サイフ氏は1976年と1986年に国民議会が停止された際も、国民議会は最終的に復活したという前例があり、国民議会を一時的に停止しても、首長と国民議会との相互関係という伝統的な政治システムがなくなるわけではないと主張している。今後も、クウェート政治の行く末を追っていきたい。

 

※1 クウェートでは政党結社が禁止されているため、政党が不存在である。本文での「野党」という用語は50人の国民議会議員のうち、政府の法案等に対し、共同して拒否する人々のことを指す。

※2 イラクはクウェートの地を実際に支配したことはなかったものの、歴史的にクウェートはイラク南部と政治的につながっていたが、イギリスが一方的に国境線を引いたことで分断されたという考えに基づき、クウェートの領有権を主張した。

※3 アラブ連盟とは、1945322日にカイロにて結成された、中東およびアフリカのアラブ諸国で構成される地域協力機構で、アラブ諸国の独立と主権の確立、政治や経済分野での協力による中東地域の平和を目的としている。

※4 記事や文献によっては、クウェートにおける民主的側面は準民主主義や部分的民主主義と表現されている。

5 選挙法改正の反対理由としては、国民1人当たりの投票数が4票から1票に削減されたことにより、野党が連立を組んでより多くの議席を確保することが難しくなったことが言われている。

 

ライター:Hayato Ishimoto

グラフィック:Ayane Ishida

 

1 Comment

  1. 匿名

    国民が、王室に対してはともかく議会に対しても不信感を抱いているというのは民主主義として元々問題があるのではないかと思います。このまま憲法が復活しても、不信感を払拭できない限り同じ問題が繰り返されるのではないでしょうか。

    Reply

Submit a Comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *