トルコとアルメニアは関係を回復できるのか?

by | 2025年08月14日 | Global View, ヨーロッパ, 政治, 紛争・軍事

2025年6月20日、アルメニアのニコル・パシニャン首相がトルコを訪れた。これは通常の国賓訪問ではなかった。アルメニアの指導者が公式にトルコを訪れたのは30年以上ぶりのことであり、1世紀以上にわたって緊張が続いてきた両国関係において、まれな瞬間だった。緊張の背景には、第一次世界大戦中のオスマン帝国によるアルメニア人の大量虐殺と追放がある。アルメニアと多くの国々はこれをジェノサイドと認めているが、トルコはその呼び方を否定している。両国はこれまで正式な外交関係を結んだことがなく、陸路の国境は1993年以降閉ざされたままだ。

この訪問は前向きな一歩のように見えた。でも問題は残る。この訪問はアルメニアとトルコの関係正常化への本当の一歩になるのか、それとも結局成果のないまま停滞してしまうのか?

閉ざされたアルメニアとトルコの国境線(写真:Vallen 1988 / Wikimedia Commons[CC BY-SA 4.0])

分断された歴史

この展開を理解するには、1915年まで遡る必要がある。第一次世界大戦の前、多くのアルメニア人がオスマン帝国支配下の東アナトリア地域に住んでいた。19世紀後半になると、帝国は衰退を続け、広大な領土を失いながら、国内では民族主義運動が高まっていた。オスマン帝国の指導部は、アナトリアに住むアルメニア人が独立を求めたり、コーカサス地域のライバルであるロシアと手を組んだりすることを恐れていた。1914年、オスマン帝国は中央同盟国側で第一次世界大戦に参戦したが、ロシアやペルシャ帝国との戦いで次々に敗北し、その不安はさらに深まった。

1915年、オスマン帝国の当局は、東アナトリアに住むアルメニア人を現在のシリアにあたる地域へ移送するよう命じた。過酷な条件のもとで行われたこの強制移送によって、飢餓や病気などで命を落とした人数は150万人にものぼるという推定もある。アルメニアと多くの国々は、これらの出来事を「ジェノサイド」と表現している。一方、トルコ政府はこの呼び方を否定し、犠牲者の死は戦争の混乱の中で起こったものであり、特定の民族を根絶やしにしようとする意図的な計画ではなかったと主張している。この歴史的な対立は今も解決されておらず、両国の政治関係に影響を与え続けている。対話や関係正常化の可能性に対するアプローチにも影響を及ぼしている。

この対立は単なる歴史の問題ではない。トルコにとって、ジェノサイドを認めることは、国家の成り立ちに関する公式な物語を根本から揺るがすことになる。トルコ政府が提示している物語は、第一次世界大戦での敗北後、オスマン帝国の分割に抵抗するために、ムスタファ・ケマル・アタテュルク氏が指導した政治的・軍事的な闘いとして描かれている。この戦いに勝利した後、1923年10月29日にトルコ共和国が正式に建国された。

この物語は、国内で国家の統一を促進し、国家の正当性を強調するために利用されている。自国の支配下にあった民族に対するジェノサイドは、この物語と矛盾する。ジェノサイドに値しないという考え方は、トルコ国民の間で広く支持されており、教育や政治、外交政策にも反映されている。外国の指導者や国際機関が「ジェノサイド」という言葉を使った時には、トルコはしばしば強い外交的抗議で反応してきた。

オスマン帝国の兵士に連行されるアルメニア人、1915年(写真: Armin T. Wegner / Wikimedia Commons[Public domain])

第一次世界大戦後、オスマン帝国は敗北して弱体化した。同時に、1917年のロシア帝国の十月革命によってこの帝国も崩壊し、黒海とカスピ海の間にある南コーカサス地域(現在のアルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアを含む)に権力の空白が生まれた。1918年4月、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンは共同で南コーカサス民主連邦共和国を設立したが、翌月には解散した。1920年、連合国は弱体化したオスマン帝国とセーブル条約を締結し、オスマン帝国支配下の西アルメニア領土をアルメニア共和国に割り当てた。しかし、新たに成立したトルコ政府はこの条約を拒否し、アルメニアに割り当てられた領土を奪うために軍隊を派遣した。

同時に、ソ連の赤軍が南コーカサスに進軍し、1920年12月にアルメニアに入った。1921年、トルコとソビエト共和国(アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージア)はエレバンでカルス条約を結び、現在のトルコとアルメニアの国境を確定させた。1922年3月からアルメニアはソ連内の南コーカサス社会主義連邦ソビエト共和国の一部となり(1936年にはアルメニア・ソビエト社会主義共和国となる)、ソ連崩壊の最終期までその状態が続いた。その後、再び独立へと向かっていった。

国境閉鎖と凍結された外交

1991年にソ連崩壊後、アルメニアが独立国家になるが、トルコとの関係改善への期待は長続きしなかった。トルコは1991年12月にアルメニアの独立を最初に認めた国の一つだったが、アルメニアの独立宣言に含まれる表現はトルコにとって問題視された。その宣言は東アナトリアを「西アルメニア」と呼び、トルコはこれを間接的な領土要求と解釈した。また「ジェノサイド」に関する条項も含まれていた。これらの条項と他の二国間条約をめぐる対立が、トルコがアルメニアと正式な外交関係を結ばなかった主な理由の一つだった。しかし1992年8月、アンカラはそれでもイスタンブールに本部を置く黒海経済協力機構(BSEC)の創設メンバーとしてアルメニアを招待した。これは問題ある歴史にもかかわらず、経済対話を続けようとするトルコの初期の意欲を示していた

しかし、状況は1992年にナゴルノ・カラバフをめぐるアルメニアとアゼルバイジャンの武力紛争が勃発して変わった。ナゴルノ・カラバフは南コーカサスにある約4,400平方キロの山岳地帯で、国際的にはアゼルバイジャンの一部と認められているが、主にアルメニア人というアイデンティティを持つ人が住んできた。この地域のアルメニア系住民は1988年にソ連当局にナゴルノ・カラバフをアゼルバイジャンからアルメニアに移すよう請願していたが、アゼルバイジャンとソ連当局はこれを拒否した。その後、民族間の衝突や相互追放、双方での民族主義運動が激化し、大規模な紛争に発展した。

戦争中、トルコはアゼルバイジャンの政治的、文化的、経済的な強い同盟国として行動し、アゼルバイジャンを外交的に支援し、アルメニア軍の進軍に反対した。1993年4月、アルメニア軍がナゴルノ・カラバフ外のアゼルバイジャンのカルバジャル地区を占領すると、トルコとアルメニアの関係は急激に悪化した。この攻勢は人道危機を引き起こし、約3万9千人の民間人がその地域から逃げ出した。

アゼルバイジャンとの連帯を示し、1993年にトルコのスレイマン・デミレル首相は、アルメニアと唯一の陸路国境を閉鎖し、アルメニア軍が占領したアゼルバイジャン領土から撤退しない限り外交関係を樹立しないと発表した。この閉鎖はアゼルバイジャンに歓迎され、トルコとアルメニア間の直接的な貿易や輸送を実質的に停止させたため、経済交流はすべてジョージアかイランを経由しなければならなくなった。ナゴルノ・カラバフ紛争はトルコ領土には一度も及ばなかったが、トルコとアルメニアの間で本当の関係正常化の可能性を妨げている。

1994年5月、アルメニアとアゼルバイジャンはキルギスの仲介で停戦に合意した。紛争は凍結されたが、政治的な解決は達成されなかった。トルコとアルメニアにとって、この戦争は争われた国境だけでなく、新たな外交的行き詰まりも残すことになった。

和解への歩み

1994年の停戦後、断続的に関与への動きが見られた。1995年、トルコは初めてエレバンへの航空回廊を開設した。しかし、その後すぐに関係は再び冷え込んだ。1998年にロベルト・コチャリャン氏がアルメニア大統領に選出され、ジェノサイドの国際的承認を外交政策の中心に据えた。2000年には、アメリカ下院が当時のビル・クリントン大統領に追悼声明の中で「ジェノサイド」という言葉を使うよう促す決議案を提出し、緊張が高まった。クリントン氏は、アメリカとトルコの関係に悪影響を及ぼす可能性を理由に、この決議を阻止した。トルコはこれに抗議し、アルメニア人訪問者へのビザ要件を一時的に厳しくした。

その後、いくつかの動きが対話の機会を生み出した。2001年、ウィーンで元外交官や市民社会の代表者たちによる一連の会合が行われ、それをきっかけにトルコ・アルメニア和解委員会(TARC)が設立された。この委員会は対話を促進することを目的とし、いくつかの二国間の市民社会イニシアティブが芽を出し始めた。そして2004年、トルコは「近隣諸国との問題ゼロ」外交政策を発表し、地域全体との関係改善を目指す姿勢を示した。

アルメニア対トルコのサッカー試合(2008年)(写真:Avdav (talk) / Wikimedia Commons[CC BY-SA 3.0])

2008年8月、ジョージアとロシアの短期戦争によって、南コーカサスの安定に対する懸念がトルコで高まった。特にロシアの影響力やエネルギー輸送ルートの確保に関する不安が背景にあった。その翌月、トルコのアブドゥラ・ギュル大統領は、アルメニアのセルジ・サルグシャン大統領からの招待を受けて、サッカー・ワールドカップ予選の試合観戦のために首都エレバンを訪れた。この訪問は後に「サッカー外交」と呼ばれ、対話への象徴的な一歩となった。

一方で、トルコとアルメニアの間では2007年からスイスで協議が行われ、一定の進展があった。その結果、2009年にトルコとアルメニアは、国境の再開と正常な外交関係の樹立を目的とする「チューリッヒ議定書」に署名した。しかし、関係改善への勢いはすぐに停滞することになる。

国境問題とチューリッヒ議定書の崩壊

トルコとアルメニアの陸上国境は、1921年にトルコとソビエト共和国(アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージア)との間で締結されたカルス条約によって定められた。トルコはこの条約を国境に関する最終的かつ拘束力のある合意と見なしているが、アルメニアはこの条約を批准していない。2010年1月、アルメニアの憲法裁判所は、チューリッヒ議定書への署名は、アルメニア・ジェノサイドの国際的承認を求める努力の放棄を意味せず、またカルス条約で定められた国境の正式な承認にも当たらないという判断を下した。

この解釈は、トルコ側にとって合意の精神を損なうものと見なされた。アルメニア憲法裁判所の判断は、トルコの即座かつ強い反発を引き起こした。トルコ外務省は声明を発表し、アルメニアの裁判所の決定は「議定書の文言と精神を損なう前提条件および制限的条項を含んでおり」、さらに「この議定書を交渉する根本的な理由と目的そのものを損なう」と非難した。

アルメニアの憲法裁判所(写真:Benoit Prieur / Wikimedia Commons[CC0 1.0])

これに対し、トルコは、ナゴルノ・カラバフ紛争中に占領されたアゼルバイジャン領からアルメニアが撤退しない限り、国境再開や議定書の批准には進まないという立場を明確にした。この姿勢は、1993年に採択された4つの国連安全保障理事会決議を反映しており、それらの決議はナゴルノ・カラバフを越えた特定のアゼルバイジャン地域からの占領軍の即時撤退を求めていた。

どちらも妥協しようとしなかったため、関係正常化のプロセスは停滞した。2018年3月、アルメニアは正式に議定書を破棄し、この接近の試みは終わりを迎えた。2010年のチューリッヒ議定書の崩壊により、トルコとアルメニアの関係は再び凍結状態となった。

歴史をめぐる争いの継続

チューリッヒ議定書の署名後の数年間で、1915年の出来事をめぐる歴史的な争いが再び国際的な注目を集めた。フランス(2012年)、ドイツ(2016年)、カナダ(2019年)など複数の国が公式にアルメニア・ジェノサイドを認めた。2021年、アメリカのジョセフ・バイデン大統領は、公式に「ジェノサイド」という言葉を使ったのアメリカ大統領となった。

何十年もの間、多くの政府、特に北大西洋条約機構(NATO)加盟国は、トルコとの戦略的・軍事的・経済的関係を損なうことを恐れてこうした認識を避けてきた。トルコの地理的位置や重要な輸送ルートの管理、中東や黒海における軍事的役割が、トルコを敵に回せない重要なパートナーにしていた。しかし、2010年代になると政治的な計算が変わり始めた。アルメニア系ディアスポラはロビー活動を強化し、国際的な人権の議論が注目を集め、シリア紛争、東地中海経由のヨーロッパへの移民問題、国内の人権問題などをめぐるトルコと西側諸国との緊張が、以前の消極的な態度を弱めた。特に2015年のジェノサイド百周年記念は、政治的な勢いをさらに強めることになった。

アルメニア人虐殺の犠牲者追悼碑、アルメニア(写真: MehmetO / Shutterstock.com)

アルメニアにとっては、これらの声明は長年求め続けてきた歴史的な認識と先祖の苦しみの承認と見なされ、数十年の活動の末に国際的な正当性を得たことになる。しかしトルコにとっては、1915年の出来事が1948年の国連条約に基づく法的なジェノサイドの定義に当てはまらないとして、そうした声明は受け入れられないものだった。こうした認識はトルコから強い外交抗議を引き起こし、駐トルコ大使の召還や関係政府との高官レベルの接触停止などが行われた。

トルコ国内では、市民社会や学界の一部で公式な物語に疑問を投げかける声も出始めたが、公共の議論は限られていた。

ナゴルノ・カラバフでの戦闘再燃

近年の最大の変化はナゴルノ・カラバフでの戦闘再燃によるものだ。1994年の停戦から何十年も経ち、アゼルバイジャンでは国際的にアゼルバイジャン領と認められている地域をアルメニアが支配し続けていることへの不満が高まっていた。1992年に設立され、アメリカ、フランス、ロシアが共同議長を務める欧州安全保障協力機構(OSCE)ミンスク・グループによる和平交渉は長年停滞していた。地域の情勢も影響し、アゼルバイジャンは軍事費を急速に増加させ、トルコとの戦略的パートナーシップを強化し、ロシアがアルメニアの安全保障保証人としての能力や意思を低下させていると見なしていた。

2020年9月、アゼルバイジャンは大規模な攻勢を開始し、ナゴルノ・カラバフと周辺地域の大部分を奪還した。トルコはアゼルバイジャンを公然と支持し、ドローンを含む軍事装備や情報提供、訓練を行った。レジェプ・タイイップ・エルドアン大統領は国連や他の国際フォーラムでの演説で、トルコとアゼルバイジャンの同盟関係を文化的・民族的な観点から「一つの民族、二つの国家」と表現し、この枠組みでトルコの政治的・軍事的支援を強化した。

戦闘は約6週間続き、両側で数千人の死傷者が出た。2020年11月、アゼルバイジャン軍が戦略的に重要な都市シュシャを奪取した後、2018年に「ベルベット革命」と呼ばれる平和的抗議運動を率いて政権を取ったアルメニアのニコル・パシニャン首相は、ロシアが仲介したアゼルバイジャンとの和平合意に同意したと発表した。パシニャンはその合意がアルメニア国民にとって「苦しい」ものだと認めたが、戦争の状況やアルメニア軍の状態を考えれば必要だと述べた。

アルメニア・アゼルバイジャン紛争で命を落とした兵士が埋葬される様子、アルメニア(2020年)(写真:Gevorg Ghazaryan / Shutterstock.com)

合意の条件で、アルメニアはアグダム、カルバジャル、ラチンの各地区から決められたスケジュールに従って撤退し、アゼルバイジャンは戦争中に奪った他のいくつかの地区の支配を強化した。これにより、南コーカサスの戦略地図は28年ぶりに変わった。戦争は2020年11月にロシアが仲介した停戦で終わり、ロシアの平和維持軍が地域に派遣された。

2023年9月、ナゴルノ・カラバフをめぐる緊張が再燃した。アゼルバイジャンは安全保障上の脅威と「憲法秩序の回復」の必要性を理由に、短期間だが決定的な軍事作戦を開始した。24時間以内にアゼルバイジャン軍はナゴルノ・カラバフの完全な支配を握り、地元のアルメニア当局は武装解除と軍の解散に同意した。2003年から権力を握るアゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領は、この作戦を成功であり、アゼルバイジャンの領土保全回復への一歩だと宣言した。

この攻勢はナゴルノ・カラバフからの大量のアルメニア系住民の避難を引き起こし、数週間で10万人以上がアルメニアに逃げ込んだ。アルメニアのパシニャン首相はアゼルバイジャンを「民族浄化」を行ったと非難したが、アゼルバイジャンはこれを否定した。2020年の戦争後に地域に平和維持軍を派遣していたロシアは、ウクライナ戦争の影響で南コーカサスでの影響力が低下し、この危機の調停に限定的な役割しか果たさなかった。

トルコにとって、この作戦は同盟国アゼルバイジャンの戦略的勝利として歓迎された。エルドアン大統領が唱える「一つの民族、二つの国家」というナラティブがさらに強化された。トルコはアゼルバイジャンの主要な地域的支持者としての役割を確固たるものにし、短期的にアルメニアとの和解の可能性をさらに複雑にした。

握手するトルコのエルドアン大統領とアゼルバイジャンのアリエフ大統領(写真:Press Service of the President of the Republic of Azerbaijan / Wikimedia Commons[CC BY 4.0])

この敗北でアルメニアは戦略を見直すことを余儀なくされた。長年、ロシアを主な同盟国として頼ってきたが、ウクライナ戦争と南コーカサス地域でのロシアの弱体化でアルメニアは露出した状態になった。アルメニアは新たなパートナーシップと新戦略を模索し始めた。2025年3月、アルメニアのパシニャン首相はトルコのメディアとのインタビューで「我々の公式見解は、国際的なアルメニア・ジェノサイド認定は現在、我々の外交政策の優先事項ではない」と述べた。これは歴史的事実を否定するものではなく、アルメニアの安全保障上の懸念と外交を考慮した戦略的な再調整を反映している。

転機:回廊と和平合意

正常化プロセスの転機は、南コーカサスにおける重要な輸送プロジェクトを通じて現れた。ソ連時代、アゼルバイジャンはこの地域の鉄道や高速道路を利用して、自国領だがアルメニア領によって分断されているナヒチェバンへのアクセスを確保していた。しかし1990年代初頭の第一次ナゴルノ・カラバフ戦争でそのルートは遮断され、飛び地であるナヒチェバンは孤立した。それ以降、アゼルバイジャン人がナヒチェバンに行くには空路か、イランを経由する陸路しかなかった。この陸路接続を復活させることは、アゼルバイジャン、トルコ、そして最終的にはヨーロッパとアジアを結ぶ物流と人の往来のための継続的な交通ルートを確立することになる。

これらの地域を結ぶ「ザンゲズール回廊」という構想は、2020年のナゴルノ・カラバフ戦争終結後にはじめて明確に提案された。2020年11月、ロシアが仲介した三者間の停戦合意には、停戦と部隊撤退の取り決めだけでなく、南コーカサスにおける交通インフラの回復に関する条項も含まれていた。

計画されている回廊は全長約43キロで、アルメニア最南端のスユニク州に位置しており、戦略的に重要な地域だ。完成すれば、アゼルバイジャン本土とナヒチェバンを直接結ぶだけでなく、トルコと中央アジアのテュルク系諸国を陸路で結ぶことになり、南コーカサスを横断してヨーロッパとアジアをつなぐ交通ルートが形成される。アゼルバイジャンは、このプロジェクトが地域の貿易と文化交流の強化に貢献すると強調している。

ザンゲズール回廊が計画されているアルメニア・イランの国境付近(写真:Jelger Groeneveld / Flickr[CC BY 4.0])

2021年4月、アゼルバイジャンのアリエフ大統領はテュルク評議会(現在のテュルク国家機構)のバーチャル首脳会議で、ザンゲズール地域は「古来のアゼルバイジャンの土地」であり、この回廊を建設することは「テュルク民族全体を団結させる」と述べた。また、このプロジェクトはアルメニアを含む他国にも新たな機会を生むとも語った。アリエフの発言は、トルコの地域連結構想と呼応しており、トルコがこのプロジェクトで果たす中心的な役割を強調していた。

2025年7月、アメリカのドナルド・トランプ政権は、アルメニア領内の回廊を100年間リースし、ナヒチェバンとの往来に関わるアルメニアの国境管理や通関業務をアメリカ企業に委託するという案を提示した。アルメニアのムナツァカン・サファリヤン外相は、アルメニアとしてはこのような取り決めについて原則的に協議する用意があると述べた。しかし、パシニャン首相の報道官は、主権領土の管理権を外部に委託するような議論は行われていないと否定した。アルメニア政府はまた、このプロジェクトがトルコとアゼルバイジャンの軸を強化し、自国の地政学的孤立を深める一方で、領土保全に対する十分な保証が欠けていることを懸念しているようだ。イランも、領土外の回廊の創設には断固として反対しており、南コーカサスへの「域外」勢力の関与に対して繰り返し警告してきた。

水面下での外交が激化した。アメリカの仲介者たちは、回廊の法的地位や安全保障の保証をめぐる溝を埋めるため、アルメニアとアゼルバイジャンの当局者と別々に、また合同で会談を重ねた。2025年8月、アメリカの仲介のもと、アルメニアとアゼルバイジャンはホワイトハウスで和平協定に署名した。協定には、アルメニアを通過する「国際平和と繁栄のためのトランプ回廊(TRIPP)」と名付けられた輸送ルートが盛り込まれ、その開発・運営権はアメリカに独占的に付与された。

和平合意に署名するアゼルバイジャン、アメリカ、アルメニアの首脳たち(写真:White House / Flickr[Public domain])

トルコはこの合意を歓迎し、このプロジェクトが南コーカサスにおけるエネルギーと貿易の流れを促進すると述べた。またトルコは、アルメニアとアゼルバイジャンの最終的な和平合意が成立すれば、アルメニアとの外交関係を完全に回復すると改めて表明した。

イランは和平合意自体は歓迎したが、輸送回廊プロジェクトには反対を表明した。イランは、この回廊の建設は現在のアルメニアとイランの国境状況を変化させ、アルメニアとの陸路連結に影響を及ぼす可能性があるとして、建設を阻止すると警告した。

トルコにとって、TRIPP回廊は単なる新たな貿易ルート以上の意味を持つ可能性がある。アルメニア領を通じてアゼルバイジャンとトルコを物理的に結びつけることで、トルコにとってアルメニアとの関係改善の動機と現実的な手段の両方を生み出す。トルコ当局は以前から、ヨーロッパとアジアを結ぶ「中間回廊」構想に沿った地域連結プロジェクトを支持してきた。もし円滑に実現すれば、TRIPPは経済的な共通利益を生み出すことで政治的緊張を緩和する可能性がある。

アルメニアとアゼルバイジャンの和平合意は、南コーカサスにおける重要な節目となる。トルコとアルメニアの長らく待たれていた関係正常化を含む、より広範な地域統合への道が開かれる可能性がある。国境が再び開かれれば、1889年に建設され、1993年にナゴルノ・カラバフ紛争の勃発によって閉鎖された東トルコと北アルメニアを結ぶギュムリ鉄道のような交通路の復活も期待できる。この鉄道が再稼働すれば、アルメニアはトルコの港への直接的な鉄道アクセスを得ることができ、トルコにとっても南コーカサスへの新たな陸路が確保されることになる。

トルコはまだ和解に向けた正式な措置を取っていないが、一部の政治家の発言のトーンに小さな変化が見られたり、1915年についての公の議論に対する寛容さが以前より増しているという指摘もある。

アゼルバイジャン、ロシア、アルメニアの首脳会議(2022年)(写真:Presidential Executive Office of Russia / Wikimedia Commons[CC BY 4.0])

今後の展望と潜在的な課題

南コーカサス地域の関係において、アルメニアとアゼルバイジャンの合意はトルコとアルメニアの関係正常化プロセスにも期待が持てるものとなった。2025年にアルメニアのパシニャン首相がイスタンブールを訪問したのは、アルメニアとアゼルバイジャンがワシントンで和平合意に署名する数週間前のことであった。

もしこの合意が成功裏に実施されれば、30年以上にわたり封鎖されていた交通ルートが復活し、最終的にはアルメニアとトルコをつなぐルートも含まれることになる。これは、トルコとアルメニアが政治的なジェスチャーを実際の協力へと変えるための稀有な機会を開くことになる。

とはいえ、歴史や政治の問題は一朝一夕に消えるものではない。深い不信感が残っており、地域の力学も複雑さを増している。しばしば「不確定要素」と呼ばれるロシアは、歴史的にアルメニアの孤立から利益を得てきたが、2023年のアゼルバイジャンの軍事的勝利とロシア軍の撤退を受けて立場を変えた。アゼルバイジャンとの関係強化を目指すロシアは、トルコ・アルメニアの関係正常化を積極的に支援する動機が減少した。しかしながら、最近の声明は慎重な支持を示しており、アルメニア・アゼルバイジャン合意によって形作られる南コーカサスの連結プロジェクトへの関心を反映している。

イランはもう一つの重要なプレーヤーとなっている。アルメニアと国境を接しており、特に「ザンゲズール回廊」の提案に反対している。これはイランの地域の通過ルートとしての役割を減らす可能性がその理由である。こうした理由から、イランはアルメニアと密接な関係を続けている。地政学的に選択肢が少ないアルメニアにとって、イランは外からの圧力に対抗する大事なパートナーと思われる。

それでも、変化の可能性はここ数十年で最も高まっている。もしトルコのトラックがアルメニアを通過し、アルメニアの物資がトルコの港から世界市場に届くようになれば、国境は亀裂線というよりも橋のようにみなされるかもしれない。これからの数ヶ月で、この時期が転換点になるのか、それともまたのがされたチャンスになるのかが明らかになるだろう。

 

ライター:Guan Zhaoshen

グラフィック:A. Ishida

 

 

2 Comments

  1. Francis

    Overall, a great article. The relationship between Turkey and Armenia is complicated due to past atrocities committed by Turkey against the Armenian people. How to resolve these historical issues remains to be seen.

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  2. Lin

    国と国との間には永遠の憎しみはなく、あるのは永遠の利益だけだ。

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