カスピ海が消える?

by | 2025年07月10日 | Global View, アジア, 環境, 農業・天然資源

地球の地表水の約3分の1を占める世界最大の湖、カスピ海。その湖が急速に姿を変えつつある。2025年4月に科学雑誌ネイチャーにて発表された研究によれば、カスピ海では2100年までに1990年のカスピ海の海抜-27.5メートルを基準として最大21メートル水位が低下する可能性がある。さらに、水位が5メートル低下するだけで、現在のカスピ海の面積の20%が消滅すると指摘されている。しかも、わずか5メートル~10メートルの水位低下でも既存の海洋保護区の最大94%の減少をもたらす可能性が指摘されている。

世界で4番目に大きな湖であったアラル海が1960年代から行われた大規模灌漑プロジェクトの影響により、元の面積の10分の1以下になり、砂漠化しつつあるように、カスピ海もなくなってしまうのだろうか?カスピ海の現状やその影響について探っていく。

国際宇宙ステーションから撮影されたカスピ海(写真:Alexander Gerst / Flickr [CC BY-NC-SA 2.0])

カスピ海の基本情報

まず、カスピ海の基本情報について理解したい。カスピ海はコーカサス山脈の東に位置しており、カザフスタン、トルクメニスタン、イラン、アゼルバイジャン、ロシアの計5カ国に接している。カスピ海に連なる主な河川としては北部のヴォルガ川・ウラル川・テレル川があげられ、これらの河川からカスピ海に流入する水量は全体の88%を占めている。一方、カスピ海の東岸には、トルクメニスタン南部のアトラク川を除き、恒久的な河川が存在していない。また、川からカスピ海に流れ込む水は淡水であるものの、その土壌に含まれる塩やミネラル成分がカスピ海に溶け出しており、淡水としての利用はできない。

こうした豊富な水資源を背景に、その名前の由来となったカスピ民族など多くの民族がカスピ海とその周辺を拠点としてきた。シルクロードの一部でもあり、古くから現在まで貿易、文化、外交の重要拠点として機能している。現在は、ロシアを経由せずに、アジア諸国からヨーロッパへ交易ができるルートとして、「カスピ海横断国際輸送ルート」という名前で注目されている。

カスピ海で得られる重要な資源は天然ガスと石油である。2022年には、カスピ海沖合での天然ガス生産は世界の天然ガス供給量の約3%を占めており、石油生産は世界の石油供給量の1%を占めていた。また、漁業でも非常に有名で、特にカスピ海でチョウザメから取れるキャビアは、世界で1番の生産量を誇っている。

カスピ海に面したイランのバボルザー・ビーチ(写真:daniyal62 / Flickr [CC BY-NC 2.0])

カスピ海は誰のもの?

天然ガスと石油の宝庫であるカスピ海は長年「誰のものか」をめぐる国際的な駆け引きの舞台となってきた。1991年のソビエト連邦崩壊以前、カスピ海を支配していたのはイランとソ連の2カ国だけであった。しかし、ソビエト連邦の崩壊後、イランとロシアに加えて新たに成立したアゼルバイジャン、カザフスタン、トルクメニスタンの3カ国もカスピ海の領有権を主張するようになり、この争いが徐々に激化していった。長年、カスピ海が海なのか湖なのかという基本的な定義すらも決まっていなかった。カスピ海が「海」と定義され国際海洋法が適用されれば、沿岸国以外にもカスピ海へのアクセス権が生じる可能性があり、他国の軍艦がカスピ海を航行する法的根拠となりうるため、これを懸念して反対する国も存在した。一方で、カスピ海が「湖」とみなされた場合、5カ国による平等な分割協定が適用され、海岸線の長短にかかわらず海底資源を均等に配分する必要が生じるため、それに反対する国も存在した。

境界線に関する争いの決着がつかない間に、沿岸国ではさまざまな事件が発生した。2001年には、カスピ海の炭化水素田開発をめぐってイランとアゼルバイジャンの対立が軍事衝突寸前の事態にまで発展したこともあった。長い対立の末、2018年についに沿岸国5カ国がカスピ海の法的地位に関する協定を締結した。これによって、この水域は海や湖とは違う「特別な法的地位」を得ることになり、カスピ海の表面の水は沿岸国で共通利用されることになった。しかし、海底資源の分配など具体的な事項については依然として、個別交渉に委ねられており、多くの問題は未解決のままである。

水位変動と汚染

このように5カ国の思惑が渦巻くカスピ海であるが、その水位が徐々に変動していることはこの地域に深刻な影響を及ぼしつつある。カスピ海の水位変動については多くの研究が存在しているが、冒頭で触れたように、2100年までに現在よりも最大21メートル水位が低下する可能性が指摘されている。また、水位が5メートル低下するだけで、カスピ海の面積は20%縮小され、77,000平方キロメートルの土地が露出してしまうという予測もある。

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このはアゼルバイジャンの首都バクーにおける1990年から2024年までのカスピ海の水位の変化を表している。カスピ海の水位は、1978年までの長期的な減少傾向のなかで年ごとの変動を見せていたが、これは主に灌漑やダム開発などの人間活動による水の流入量減少が原因であった。しかし、1978年から1995年頃までの期間には水位が急激に上昇した。この上昇は、ヴォルガ川流域の一時的な気温低下に伴う蒸発量の減少や、灌漑事業の縮小などによって引き起こされたと考えられている。

その後、1996年以降は再び水位が低下に転じ、近年では特に急激な減少が見られる。この背景には、地球温暖化による降水量の減少と蒸発量の増加があり、さらにソ連崩壊後の産業構造の変化も影響を与えていると考えられる。この図から、気候変動や人間の産業活動の変化などが水位変動に大きな影響を与えていることがわかる。

カスピ海の海岸線はこれまでも進退を繰り返してきたが 、特に20世紀の水位の変動はカスピ海に流れ込む水の水量と降水量の変化や蒸発量の増加が原因であると考えられている。このカスピ海に流入する水量に影響を与えているのが、ロシアのヴォルガ川である。カスピ海に流れ込む水の約80%を供給しているこの川の流域で、ロシアが2021年時点で11基ものダムを保有しているため、カスピ海に流入する水量が減少した。また2022年に、ロシアがウクライナ侵攻と同時期に意図的にカスピ海への水の流入量を減らした可能性も指摘されている。ロシアが、西側諸国の経済制裁の影響で輸入できなくなった農業生産物を国内生産で補うため、ヴォルガ川からより多くの水を農業用水として利用したのではないかと考えられている。

そして、それ以上に気温上昇の影響を受けると考えられているのが、蒸発量の変化である。ある研究では、カスピ海の蒸発量の増加が、河川流入量や降水量よりもカスピ海の変化に寄与しているとされている。2100年までに、カスピ海で平均気温が約3.64度上昇するという予測があり、今後も蒸発量の増加は続くものと考えられる。

水位の低下は特に浅瀬の地域に大きな影響を及ぼす。世界保護地域データベース(WDPA)によると、カザフスタンによって設定されているカスピ海の保護区は、カスピ海全体の16.8%である。しかし、そのほとんどが沿岸部に位置しているため、水位が5メートル低下すると、保護区の面積が現在の7%、10メートルの低下で現在の1%にまで縮小すると予想されている。このままでは2100年までに、現在の保護区が消滅する可能性は非常に高い。

加えてカスピ海が抱えているもう一つの問題は、水質汚染である。大規模な石油・ガス採掘の影響で、生物にとって有毒な水銀やカドミウムなどの重金属による汚染が確認されている。また、ロシアがウクライナ侵攻に伴ってカスピ海から発射したミサイルの燃料に含まれる有毒物質がカスピ海に降り注いでいる可能性も指摘されており、汚染状況はさらに悪化している。カスピ海は閉鎖流域であるので、汚染物質がカスピ海に排出されても、カスピ海から他に流れ出るということがなく、域内に物質が堆積していくという問題がある。

カスピ海の変化が環境や人に与える影響

こうした環境変化と汚染の問題は生物多様性の面で大きな懸念がある。カスピ海には222種類以上の固有の無脊椎動物(原生動物と寄生虫を除く)と31種類の固有の魚類、カスピカイアザラシなどの貴重な生態系が存在している。しかし、人々の無計画な行動により、その生態系は破壊されてきた。

カスピカイアザラシの個体数は過去1世紀で90%減少し、20世紀初頭の120万頭から現在では推定7万5,000頭から27万頭までに減少したとされているが、今後の水位変動はカスピカイアザラシのさらなる減少を招く可能性がある。歴史的には、20世紀のほとんどの期間でカスピカイアザラシから取れる毛皮や油脂を目当てに国家主導でアザラシ猟が行われていた。現在ではカスピカイアザラシが国際自然保護連合(IUCN)によって、絶滅危惧種に指定されたこともあり、現在沿岸5カ国でカスピカイアザラシの狩猟を禁じられているものの、その減少は続いている。

近年ではカスピカイアザラシの大量死が繰り返し観測されている。原因についてはさまざまな説があるものの、主に水質汚染と海氷面積の減少が考えられている。上記で述べたとおり、カスピ海の水質汚染は深刻である。この汚染がカスピカイアザラシの免疫システムに影響を与え、感染症の拡大を招いたのではないかと指摘されている。実際、2024年10月、処理が不十分な排水をカスピ海に流しているロシア連邦ダゲスタン共和国の沿岸部では、アザラシが1頭しか記録されなかった。専門家は、カスピカイアザラシの食料である魚なども毒素に感染している可能性を指摘している。また、冬季の海氷面積の減少で、カスピカイアザラシの生息地の縮小が起きると言われている。具体的には水位の5メートルの低下で最大81%の生息地の縮小が起きると考えられている。本来、カスピカイアザラシは冬になると北上し、海氷のある北部で繁殖を行うが、今後は繁殖地を失う可能性がある。

カスピ海に生息するカスピカイアザラシ(写真:Aboutaleb Nadri / Wikimedia Commons [CC BY 4.0])

また、カスピ海で有名なキャビアを生産するチョウザメも同様に生息域や産卵場所への影響を受けている。水位変動に伴って生息場所である浅瀬の地域が縮小することで、チョウザメの移動が妨げられ、産卵場所である河川に辿りつくことができなくなる可能性もある。こうした生物個体数の変化は、カスピ海での漁業の縮小を意味する。また、現在、チョウザメの捕獲は禁止されているが、多くの人が違法にチョウザメを捕獲し続けている。他の魚についても漁獲量の減少が危惧されている。例えばカザフスタンでは、ナマズとマスの漁獲量が減ったため、残存する個体を保護するために一時的な漁獲禁止措置を講じ、対策を行なっている。今後、カスピ海の縮小が続けば、カスピ海の塩分濃度はさらに濃くなり、カスピ海の魚にとって、より住みにくい環境になり、漁獲量が減る可能性がある。

こうした状況は人間社会にも影響を与えている。近年漁獲量は減少を続けているため、沿岸国の漁師たちの多くは、漁業だけでは生活を維持できなくなってきている。また、カスピ海が縮小に伴い、海底に堆積していた有毒な粉塵が乾燥して、風に運ばれることで、数百万人規模の呼吸器疾患のリスクを高めている。砂嵐が頻繁に発生し、農業にも影響が出てきている。このような理由から現在カスピ海周辺に定住している1,500万人のうち、今世紀半ばまでに最大500万人が移住を余儀なくされる可能性がある。

縮小するカスピ海とその地政学的影響

カスピ海は、中央アジアとヨーロッパ、中国をつなぐ貿易とエネルギー輸送の戦略的要衝として重要な役割を果たしている。2022年のロシアによるウクライナ侵攻以前は、欧州と中国間の鉄道輸送の90%以上はロシアを経由していた。しかし、経済制裁以降ロシアを経由しない交易路の拡大が模索されてきた。中でもカスピ海横断国際輸送ルートは、欧州連合(EU)にとってロシアやイランを経由せずに中国との貿易を行うためのルートとして注目されており、その地政学的重要性は増している。中国などから運ばれてきた物資はカザフスタンのカスピ海沿岸にあるアクタウ港やクリク港からカスピ海を横断し、アゼルバイジャンのバクーやアラトに到着し、そこから陸路でヨーロッパへと輸送される。

この輸送方法では西側諸国からの経済制裁の対象になってきたロシアやイランを経由する必要がないので、EUや中国にとってサプライチェーンの強化につながっているのだ。特にロシアによるウクライナ侵攻以降、カスピ海横断国際輸送ルートを使った交易は増えており、世界銀行の予測によれば2030年の輸送量は2021年の3倍になるとされている。中国やEUはすでにこの回廊に大きな期待を寄せており、貿易に必要な物流施設の開発や中央アジア諸国での交通網の整備を目標とした投資を行ってきた。

Middle Corridorのデータを元に作成。

しかしながら、カスピ海の水位低下というリスクがこうした経済構想に暗い影を落とし始めている。2100年までには重要な港湾が完全に交易不可能になる可能性が指摘されている。一方、トルクメニスタンのトルクメンバシ港やロシアのラガン港では、最悪の場合海岸との距離がそれぞれ16キロメートル、126キロメートル離れてしまう可能性がある。港湾以外にも石油の製油所や天然ガスの処理施設といったインフラ施設も海岸線からの距離が5キロメートル以上増加する可能性がある。こうした水位変動に伴う経済的損失は、年間数百億米ドルを超える可能性がある。

こうした中、水資源不足という別の火種も浮上している。GNVでも以前紹介したように、近年中央アジアでは、水資源の減少に伴い、水資源獲得のための争いが勃発している。カスピ海ではカザフスタン・アゼルバイジャン・イランが淡水化プラントを建設中または検討中である。普通の海水よりも塩分濃度の低いカスピ海の水の淡水化は、そのコストが比較的低いからである。これらの国々は、この水を農業や生活・グリーン水素の製造に使用する予定である。一方で、この淡水化が環境汚染やさらなる水位低下を引き起こす懸念もあり、今度中央アジアの水資源をめぐる争いを加速させる可能性がある。カスピ海の動向は、地域の安定にとっても極めて重要な要素となっている。

COP29とカスピ海

こうした状況を受け、2024年にアゼルバイジャンのバクーで開催された第29回国連気候変動枠組条約締約国会議(UNFCC COP29)は、カスピ海の水位低下問題が主要な議題の一つとして取り上げられた。しかし、議論は容易に進まなかった。議長国であるアゼルバイジャンは化石燃料の制限には消極的で、化石燃料を「神様からの贈り物」と表現する場面もあった。しかし、こうした化石燃料の消費は気候変動を引き起こし、カスピ海の減少に繋がっており、アゼルバイジャンの主張には矛盾が生じていた。

カスピ海で石油を採取する移動式掘削装置(写真:www.dragonoil.com. / Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])

また、イランは、過去10年間、カスピ海の水量減少を加速させている気候変動への対策にほとんど取り組んでこなかった。そのためイランのCOP29への参加に対しては、イランの環境保護政策への変化を期待する声が上がっていた。しかし、実際には環境保護対策に消極的なイランの姿勢は変わっておらず、2015年のパリ協定に加盟しないという方針にも変わりはなかった。COP29ではカスピ海の保護をめぐる地域間協調の難しさが浮き彫りになったと言える。各国が短期的な国家利益に目を奪われ長期的な環境保全の努力を怠っているように見える。地理的にも閉ざされたカスピ海は、各国の協力なしには効果的な対策を講じることができない。

一方、気候変動によって引き起こされるこれらの問題への対策も見られる。COP29の場でアゼルバイジャン・カザフスタン・ウズベキスタンは、「グリーンエネルギーの開発・移転分野の戦略的パートナーシップに関する3者協定」を結んだ。3国は 今後、カスピ海海底や黒海を横断する送電ケーブルを敷設し、再生可能エネルギーをヨーロッパに供給する予定である。

この地域は、世界でも有数の再生可能エネルギー生産のポテンシャルを秘めており、沿岸国はその地理的条件や豊富な自然資源を活かすことで、気候変動対策と経済発展の両立を目指している。特にカザフスタンは、風力と太陽光の発電ポテンシャルが極めて高く、単独で世界の風力発電量を上回る可能性もあるとされる。こうした取り組みは、従来の化石燃料依存からの脱却を図るだけでなく、エネルギー安全保障の強化につながると期待されている。さらに、再生可能エネルギーの輸入基盤を整えることは、EUにとっても脱炭素社会の実現に向けた重要なステップとなる。今後、こうした地域間連携が進むことで、カスピ海地域は気候変動への国際的な対策の中核を担う存在となる可能性を秘めている。

カスピ海の未来のために

カスピ海の未来は、各国の選択に大きく左右される。目先の利益を超えた協力と持続可能な対策がなければ、この内海の縮小は地域の生態系、環境、経済に取り返しのつかない影響を及ぼしかねない。世界最大の内海と名高いカスピ海を守るため、今こそ国境を越えた真の連携が求められている。

 

ライター:Ito Risa

グラフィック:Ayane Ishida

 

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