「発展途上国」を問う

by | 2025年05月22日 | Global View, 世界, 経済・貧困, 農業・天然資源

2015年、世界銀行は「発展途上国」という用語の使用を段階的に廃止すると発表した。大手国際NGOや、各国の研究者、ジャーナリストにおいても、この言葉の使用に対して批判の声が上がってきた。このように近年、この表現の使用の是非が問われることが増えており、その理由も多岐にわたる。

しかし依然として「発展途上国」という表現は、低所得で工業化が進んでいない国々を示す言葉として、主流の場面で根強く使われ続けている。多くの報道機関、政府、国際機関、さらには一部の学術文献でも、世界の大多数の国々にこのレッテルが貼られている。

GNVでは、「発展途上国」という表現を使用しない方針を取っている。代わりに「低所得国」という言葉を使うことが多い。こうした編集方針の理由については、過去の記事ポッドキャストで簡単に触れてきたが、より深く掘り下げる必要がある。

本記事では、「発展途上国」という言葉が抱える複数の問題を探る。この言葉が多くの国の経済状況を正確に表していないという点に加えて、この言葉の背景にある歴史的な問題、現在も続く構造的格差、そして異なる発展のあり方を覆い隠す世界観にも焦点を当てる。

ベラルーシでみられる格差(写真: KPad / Shutterstock.com)

上昇する道?

「発展途上国」という言葉が使われるようになったのは、第二次世界大戦後である。1950年代から60年代にかけてさまざまな文脈で広まり始めた。その時期は、植民地支配の終焉と新しい国際機関の設立が進んでいた時期でもあった。「開発理論」と呼ばれる学問分野が登場し、主にアメリカや他の西ヨーロッパ諸国で、経済発展や政治制度に関する研究が進められた。こうした研究では、所得の低い国々は一時的な移行段階にあり、いずれ「先進国」と呼ばれる経済的に豊かな状態に向かって進んでいくとする見方が一般的だった。「発展途上国」という言葉には西洋の工業国の歩みをモデルとした、国は貧困から繁栄へと一直線に進むとする楽観的な前提があった。

「発展途上国」という言葉の元は英語(developing countries ※1)だが、日本語の表現としても注目する価値がある。この言葉は文字通り「発展の途中」という意味で、前向きな進行や前進しているというニュアンスが強く含まれている。辞書でみれば、「発展」は「勢いなどが伸び広がって盛んになること」を意味し、「途上」は「 目的地に行く途中」「目的に従って進行している途中」などと記載されている。合わせて「発展途上」を調べると、「これから栄えていく、または、現在勢いを伸ばしつつあるさま」とある。

つまり「発展途上国」というレッテルはなぜか、その国が現在どのような状態にあるかではなく、どの方向に向かっているかという想定を表している。この想定そのものをまず問う必要があるだろう。本当にこのような表現が、それぞれの国の経済状況の方向性を適切に捉えているのだろうか。

50億ドル札の札束。ハイパーインフレの最中にあったジンバブエ、2008年(写真:Mark Auer / Flickr[CC BY-NC 2.0])

現実には、「発展途上国」とされる国々の中には、安定した上昇過程をたどっていない例が数多く存在する。むしろ、大きな経済的・政治的後退を経験した国も少なくない。たとえば、1970年代半ばから1990年代にかけて、サハラ以南アフリカは地域全体として経済成長率がマイナスとなっていた。また、国別でみると、政治的抑圧や経済の失策、社会不安によって、長期にわたる深刻な後退を経験した国もある。ベネズエラ、ジンバブエ、ハイチなどがその一例である。さらに、武力紛争や軍事政権によって、経済成長が妨げられた事例もある。大規模な武力紛争を経験してきたコンゴ民主共和国、シリア、イエメン、パレスチナ、ミャンマーといった国々は、不安定さや暴力によって経済成長が止まり、あるいは逆行した状況の例として象徴的だ。このような現実は、「発展途上国」と呼ばれる国々がすべて同じ「発展」という方向に向かっているという前提に真っ向から反する。

加えて「発展途上国」という言葉は、ある到達目標が存在し、そこに向かって「遅れている」だけだというイメージも含んでいる。すなわち、こうした国々は、いずれ「先進国」のような状態に到達することが前提とされている。しかし、低所得国がそのような目標に向かっているという証拠は弱い。高所得国と低所得国の間の経済格差は、多くのケースで今も続いており、捉え方によってはむしろ拡大していることさえある。たとえば、一人当たり国内総生産(GDP)の長期的な成長率を比較すると、低所得国も経済成長してはいるものの、成長速度を見るとむしろ高所得国の方が速い傾向にある。つまり、全体として見れば、低所得国が高所得国に追いついているとは言いがたい。

結局のところ、「発展途上国」という表現は経済的な現実を誤って伝えるだけでなく、「進歩」に対する「希望」という感情的な物語を含んでいる。この物語は、「発展」への一本道を前提とし、低所得国は単に遅れているだけで、いずれ同じゴールに到達するという印象を与えるものだ。しかしこれは、現状の客観的な分析というより願望に近い。実際には、発展が停滞したり後退したりしている現実、根強い不平等、持続的な経済成長や工業化を阻む構造的な要因が存在している。つまり、「発展途上国」は中立的な言葉ではなく、むしろある種の慰めとして機能している。

構造的背景

これまでみてきたように、「発展途上国」という用語は現実の世界の状況とかけ離れている。それにもかかわらず、なぜこれほどまでに使われ続けているのか。その理由の一つは、この言葉が現状から最も利益を得ている側にとって都合が良いからだと言える。「発展途上国」という言葉は、世界的な不平等を一時的なものとみなし、現状のままでいれば自然に解消されていくものであるかのように描き出す。そのため、この用語は「現在の世界の仕組みは正常に機能している」「貧しい国々の経済成長は単に遅れているだけで、そのうち追いつく」という安心感のある物語を提供する。こうした楽観的な物語は、現状から利益を得ている人々にとって都合がよく、不平等の根本的な原因に目を向ける必要を避けられる。

意図的であれ無意識であれ、この用語を使い続けることによって、世界の格差を助長する構造的な仕組みから注意をそらす効果が生まれる。「発展途上国」という表現は、低所得国には内部改革や統治の改善が必要だと示唆するが、それらの国の発展を妨げているより根本的な問題である、国際的な制度や国家間の力関係を思い起こすことはない。

しかし実際には、世界の不平等の多くは世界経済に組み込まれた構造的な問題に根ざしている。不公平な貿易関係(アンフェア・トレード)がその中心にあり、天然資源と安価な労働力を有する低所得国は、高所得国に利益をもたらすような輸出中心の経済構造に固定されている。買い手と売り手の間にある力の不均衡によって、農産物や原材料の価格は、売り手である低所得国側ではなく、買い手側によって決定されることも多い。この結果として、グローバルな価値連鎖は上位にいる者ほど利益を得られる仕組みになっており、実際にモノを生産する労働を提供している側よりも、それを取引・販売している側の方が大きな利益を手にしている。

さらに、多国籍企業や富豪による大規模な租税回避・脱税行為も、低所得国の国家財政に大きな損害を与えている。こうした行為は、多くの世界貿易が経由するタックスヘイブン(租税回避地)によって支えられている。

タックスヘイブンとして機能するマルタでの豪華ヨット(写真: Maltese Robinson Robinson / Shutterstock.com)

多くの低所得国は、経済的に持ちこたえようとし、貧困を削減しようとする過程で多額の債務を抱えることになる。しかし、債務を抱えることの影響が常にプラスとは限らない。世界銀行や国際通貨基金(IMF)のような機関は、高所得国の影響を強く受けており、融資の条件として緊縮財政(歳出削減)を求めることが多い。その結果、保健、教育といった重要な分野への公共投資が制限されることになる。

これらの構造はけっして新しいものではない。奴隷貿易や植民地支配の時代にまでさかのぼる、長い搾取の歴史の中に根を持っている。植民地時代には、莫大な富が計画的に植民地から吸い上げられ、宗主国に移転された。形式的な植民地支配が終わった後も、搾取的な関係が終わったわけではない。たとえば、西アフリカ・中央アフリカの多くの国では、独立後も金融政策がフランスの影響下に置かれる経済構造が残り、多くの国の通貨主権や経済的自立を妨げている。

したがって、経済的に力をもつ国々と周縁化された国々の間に存在する格差は、自然発生的な「発展の段階差」などではなく、内部の統治や政策の失敗だけに起因するわけでもない。それは、外部の経済的・政治的・歴史的な力によって形成され、維持されている。こうした国々は単なる「遅れている国」や「発展していない国」なのではない。むしろ、このような国々を指して「意図的に発展を阻まれてきた国」(underdeveloped)や、「過剰に搾取されてきた国」(overexploited)と表現する研究者もいる。このような視点は、「発展途上国」という言葉に込められた核心的な前提(つまり、不平等は一時的かつ偶発的なものであり、やがて解消されるだろうという楽観的な物語)を根本から問い直すものである。

なお、このゆがんだ現実をさらに強化しているのが、貧困解決の手段として政府開発援助(ODA)に過度に焦点が当てられていることである。確かに援助が特定の課題に対処する役割を果たすことはあるが、各国間で動いている資金の流れ全体の中ではごく一部にすぎない。実際には、債務の返済、多国籍企業による利益移転、租税回避、違法な資金流出といった形で、遥かに大きな額の富が低所得国から高所得国へと移動している。それでもなお、「開発」についての語りは援助にばかり焦点を当て、貧困や不平等を生み出している権力構造や制度的な格差には目を向けない。このような一方的な見方は、援助を行う国々を「善意の支援者」として位置づける一方で、自らが問題の原因となっていたり、現状から利益を得ている可能性を見えにくくしている。

ココナツのプランテーション、タイ(写真:Chris Bird / Flickr[CC BY-NC-SA 2.0])

「発展」への決まった道?

「発展途上国」「先進国」といった言葉のもう一つの問題は、経済成長と発展を同一視している点にある。発展を一人当たりGDPや国民総所得(GNI)といった経済指標だけで測ろうとするアプローチは、人間の福祉や幸福の多面的な側面を捉えることができない。こうした狭い見方では、「進歩」とは単なる金銭的な数字の上昇であり、人々の生活に影響を与える政治的・社会的・環境的・文化的な要素が軽視される。発展は、所得水準、市場への統合、生産量といった経済データに集約され、健康、教育、政治参加、環境の持続可能性などの重要な要素が見落とされる。

こうした見方に対し、国連開発計画(UNDP)が提唱する「人間開発指数(HDI)」のような代替的な枠組みは、より包括的な理解を提供している。HDIは平均寿命、教育水準、生活の質などの指標を用いており、「発展」は経済成長だけでは測れないということを示している。

また、「発展途上国」という言葉には、すべての国が西洋の工業国と同じ道を歩むべきだという思想が込められている。しかし実際には、各国の歩みやその時々の政府のとってきた政策を見ると、それぞれ異なる優先事項、価値観、制約のもとで、多様な発展の道を模索している。たとえばキューバは、アメリカによる経済制裁や国内の政治・経済政策によって大きな経済的制限を受けているが、それでも平均寿命や医療の成果では多くの高所得国に近い水準を維持している。新型コロナウイルスのパンデミック中も、キューバは公衆衛生体制を強化し、自国で複数のワクチンを開発するという成果を上げた。キューバの事例は、市場成長よりも社会サービスを優先するような代替的な発展モデルが、人間の福祉にとって効果的であることを示している。

ブータンも対照例を提供している。経済規模は小さいものの、ブータンはGDPではなく「国民総幸福量(GNH)」を基盤にした発展モデルを採用してきた。この枠組みは、心理的な幸福、環境の持続性、文化の保全などを重視する。ブータンの政策は、急速な工業化や国際市場への統合よりも、人間と自然の健やかさを優先するという明確な選択を反映している。こうした例から分かるのは、発展とは1つの共通ルートをたどる一本道ではなく、各国の歴史的・政治的・文化的背景によって大きく異なるものだということだ。

キューバの病院の様子(写真:IAEA Imagebank / Wikimedia Commons[CC BY 2.0])

さらにすべての国が「高所得・大量消費社会」を目指すべきだという考え方自体が、非現実的であり、環境的にも持続不可能である。もし世界中のすべての国が、現在の最も裕福な国々のような生活水準と消費パターンを目指した場合、その環境への負荷は壊滅的なものになる。地球の生態系は、すでに高所得国のような消費をグローバルに再現することに耐えられない。グローバル・フットプリント・ネットワークのデータによれば、人類はすでに毎年、地球が再生できる資源量を上回る消費をしており、その「オーバーシュート」は年々早まっている。この「アース・オーバーシュート・デー」と呼ばれる日は、資源の使いすぎを可視化する目安となっている。こうした過剰消費の主な責任は、必要以上にエネルギーや資源を使っている高所得国にある。

「発展」を最も工業化が進み、資源消費の多い国々の道をなぞることと定義し続けるならば、世界は現在以上に持続可能性の限界を超えてしまうことになる。

「発展途上国」への代替案

これまで見てきたように、「発展途上国」や「先進国」といった言葉には、さまざまな問題がある。だが、世界には大きな格差が存在する以上、その実態を表現する言葉はやはり必要であろう。

GNVでは、「発展途上国」の代わりに「低所得国」、「先進国」の代わりに「高所得国」といった表現を使うようにしている。これらの言葉は、経済的な現状を表すことを目的としており、「発展」という一方向の道のりを前提とした希望を込めた表現ではない。

とはいえ、この用語にも限界はある。「低所得国」と「高所得国」の二択は、「発展途上」「先進国」の分類よりも現実に即してはいるが、それでも世界の複雑で多様な状況を単純化してしまう。「発展途上国」「先進国」という言葉に度々向けられる批判は、そもそも世界はきれいに2つに分けられるものではない、という点にある。「低所得国」とされる国々の間でも、一人あたりGNI、インフラ、政治体制、公衆衛生の水準、不平等の度合いなどには大きな違いがある。一方、「高所得国」であっても、国内に貧困や格差を抱えている国は多い。だからこそ、異なる文脈にある国々を一括りにすることには注意が必要だ。

紅茶の葉っぱを収穫する人、スリランカ(写真:Knut-Erik Helle / Flickr[CC BY-NC 2.0])

この問題に対応するため、より細かい分類を導入しようとする試みもある。たとえば世界銀行は、GNIに基づいて、「低所得国」「下位中所得国」「上位中所得国」「高所得国」という4つの階層に分けている。理論上は、このような段階的分類のほうが、経済的な多様性を正確に反映できるはずだ。しかし実際には、この区分にも問題がある。分類の基準となる数値が低く設定されているため、実際の困窮や困難が見えにくくなるという批判がある。実際、「中所得国」とされる多くの国々には、なお大勢の貧困層や、基本的なサービスにアクセスできない人々が多く存在している。

また、こうした基準が過剰に低く設定されている背景には、世界の富の大半が高所得国に集中しているという現実を目立たなくする意図があるのではないか、という指摘もある。つまり、近年の中国などの例に見られるように、急速な経済成長を遂げた国もあるが、それでもなお高所得国と低所得国の間には巨大な格差が存在し、実際にはその中間に位置づけられる国はそう多くない。実際、世界人口のほぼ半数が「エシカル(倫理的)な貧困ライン」と呼ばれる基準以下の生活をしているとも言われている(※2)。

他にも、「グローバル・ノース」と「グローバル・サウス」という表現も存在する。これらの言葉は必ずしも経済的な指標だけに基づくものではなく、より広く、植民地主義、権力構造、国際経済の仕組みなどに根ざした地政学的・歴史的な区分を示している。「グローバル・ノース」にはヨーロッパ、北アメリカ、そして東アジアの一部などが含まれ、「グローバル・サウス」にはアフリカ、ラテンアメリカ、中東、アジアの多くの地域が含まれる。もちろん、これらの表現も単純化であり、すべての国がその定義にきれいに当てはまるわけではない。だが、こうした用語は歴史的背景や構造的な権力関係を強調する際には有用であり、「開発」「成長」といった経済的な尺度だけでは捉えきれない問題を捉えるための手段とも言えるかもしれない。

まとめ

現在の世界では、富の大部分がごく一部の人々の手に集中している。一方で、貧困は世界人口の大多数に影響を与えている。この構図は国のレベルでも同様だ。このような現実を正確に語る言葉を見つけることは確かに難しい。しかし、世界のあり方やその仕組みを理解する妨げとなる言葉には、きちんと異議を唱える必要がある。「開発途上国」という言葉はそろそろ脇に置き、現実をより的確に捉える表現を模索すべき時が来ているだろう。

 

※1 この用語は英語から生まれたものであるため、そこで指摘されている問題点のすべてが日本語にも当てはまるわけではない。英語の “developing” には、単なる経済成長だけでなく、「人間的発展」や「成熟」の意味も含まれていることがあり、この言葉が子どもと大人の関係を連想させることもある。つまり、“developing countries” は「未熟な国々」というニュアンスを帯び、上から目線で扱われていると感じさせることがある。

一方、日本語には「発展途上」と「開発途上」といった異なる言葉があり、それぞれ意味が区別されているため、このようなニュアンスは必ずしもそのままにはならない。ただし、「発展途上国」という表現にもやはり、どこか上から目線で優越感を伴った印象を与えることがある点では共通している。

同様に、英語圏では高所得国のことを “developed countries”(「発展し終えた国々」)と表現することが多い。この言い方に対する批判もある。というのも、“developed” という表現は、これらの国々がすでに発展を完了し、最終段階に到達したかのような印象を与えるからだ。だが、実際にはこうした国々にも、深刻な不平等、貧困、その他さまざまな社会問題が存在している。そのような現実を無視した言葉遣いが問題視されている。

※2 世界銀行により定められた極度の貧困ラインは1日2.15米ドルで暮らす状態である。しかしこの貧困ラインは過剰に低く設定されており、その代替的な尺度として、1日7.4米ドルを基準として、貧困と寿命の関係を根拠とする エシカル(倫理的)な貧困ラインが挙げられる。

 

ライター:Virgil Hawkins

グラフィック:Yow Shuning

 

 

1 Comment

  1. ティーマスターになりたい人

    「発展途上国」「先進国」という言葉に以前から違和感を持ってきました。ここで語られているように、複雑な状況を無理矢理一つの型に押し込めることがもう限界を迎えているのでしょう。多様な国々に合わせたそれぞれの指標で考えていく時代が来ているのかもしれません。

    Reply

Submit a Comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *