クルド人と国家の軋轢

by | 2025年05月15日 | Global View, ヨーロッパ, 中東・北アフリカ, 共生・移動, 政治, 紛争・軍事

2025年5月12日、トルコを拠点とするクルド労働者党(PKK)は組織を解体し、40年間に渡るトルコ政府に対する武装闘争を終わらせることを発表した。クルド民族の闘いの軸として活動してきたPKKは、政府のクルド民族に対する否定・絶滅政策を打ち破る役目を終え、クルド人問題を民主政治を通じて解決する段階に導いたと表明している。また、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は今回の解散を、「テロのない国」を目指す重要な節目だと位置づけた。

クルド人は、古くから築かれてきた文化や独自の言語が民族としてのアイデンティティを際立たせているものの、独自の国家を持てていない。現在、クルド人は主にトルコ、イラン、イラク、シリアなどに散らばって暮らしている。その正確な人口を知ることは難しいが、現在おおよそ3,000万から4,500万人のクルド人がいるとされている。

本記事では主に20世紀初め以降の出来事に焦点を当ててクルド人の置かれている状況と自民族の権利を求める運動をふり返り、そして現在のクルド人の周辺地域との関わり方について見ていく。

クルド系住民が多いトルコのディヤルバクル市でのトルコ与党の事務所前(写真:ippnw Deutschland / Flickr[CC BY-NC-SA 2.0])

「クルド人」の歴史的形成

クルドというアイデンティティの起源については諸説あり未だ明らかではないが、祖先は新石器時代にまでさかのぼるメソポタミアの先住民族であるとされている。メソポタミアは、現在のイラク、シリア東部、トルコ南東部、イラン西部にまたがる地域で、2つの大河が流れる肥沃な土地である。クルド人はこの地域に定住したあらゆる民族の末裔だと考えられている。「クルド」はシュメール語で山を意味する「クル」から派生した言葉で、山岳の民を表す。原初はメソポタミアの平野で農耕・牧畜を営んでいたが次第に周辺の山岳地帯を拠点とするようになった。

近隣文明と密接に関係を持ち、周辺勢力と融合した数々の王朝の指導者であった記録がある。14世紀頃、当時複数の勢力の影響下にあったクルド人地域はオスマン帝国が東に進出してくるとその支配下に入る。クルド人はオスマン帝国の拡大に協力し、忠誠を誓うことで自治を許された。概して、数千年にわたってこの地域に出入りしたあらゆる民族と交流を持ち、その中で様々な文化が組み合わされていくことでクルド人としてのアイデンティティは形成されてきた。

言語から見ても多様で、イラン語派に属するクルド語は様々な方言を含んでおりその表記も地域によって異なっている。クルド語は主に口承文化の中で発展してきた。16世紀頃には詩として盛んに書面に起こされクルド文化の礎を築いてきた。

宗教に関しては、7世紀頃にイスラム教が導入され今日クルド人のほとんどがイスラム教スンニ派を信仰している。しかし統一された教義に基づくアラブ人的なイスラム教とは違い、むしろイラン系の民族をクルド人の濃いルーツとして、クルド文化と融合する柔軟な形でイスラム教は浸透してきた。そしてイスラム改宗以前からの信仰であるキリスト教やヤジディ教、ゾロアスター教 などを受け継ぐクルド人も現在相当数いる。

民族意識の高まりと抑圧

19世紀、オスマン帝国の衰退期には帝国とクルド人の関係は緊張と対立が顕著になった。1839年から1876年にかけてオスマン帝国がタンジマート改革で中央集権化と近代化を図ると、クルド人の自治が大幅に制限された。そんな中、今日にまで至るクルド民族主義の起こりが1879年のクルド系勢力による反乱にあらわれたが、やむなく鎮圧された。

19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけて主に知識人の間でクルド語新聞やクルド人組織を通して民族主義がささやかれ、クルド人の土地を意味するクルディスタンと呼ばれる祖国の創設がクルド人の間で検討され始めた。

1914年にはフランス、イギリス、ロシアなどの連合国とそれに対するドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国などの同盟国の間で第一次世界大戦が勃発する。大戦中の1916年、イギリスとフランスはオスマン帝国の領土を分割するサイクス・ピコ協定を秘密裏に結んだ。これにより決められた国境線に従い、現在のシリアにあたる地域はフランスの、イラクにあたる地域はイギリスの統治下に入った。その後イラク、シリアはそれぞれ独立を果たしたが、当時の国境線は現在のイラン、イラクの国境に反映されており、クルド人地域を分断するきっかけとなった。

大戦後の1920年に連合国側と敗北したオスマン帝国の間で締結されたセーヴル条約ではオスマン帝国の領土が連合国の間で分割され、クルド人国家が規定された。分割に反発して、旧オスマン支配下にあったトルコ人は1919年から独立戦争を起こし、侵入してきた連合国側の国々と戦った。トルコ人は戦争に勝利するとセーヴル条約を破棄して領土の分割を無効化し、1923年に連合国との間で新たにローザンヌ条約を締結し現在のトルコ国境を確保して、トルコ共和国を樹立した。しかし、ローザンヌ条約にはクルド人国家の規定はなかった。

独立国家が反故にされたことでクルド人の不満は高まった。トルコの統治下で、クルド人は山岳のトルコ人と呼ばれ、同化政策の対象とされる。文化や慣習が抑圧され、クルド語も禁止された。そんな中1925年にクルド系勢力は大規模な反乱を起こしたが、やがて鎮圧され、関係者は処刑、多くのクルド人が強制移住させられた。この反乱に影響されて1930年にアララト山の反乱、1937年にはデルシムの反乱で蜂起したがどちらともトルコ政府に鎮圧され、デルシム地方では約3万人が虐殺される結果となった。

クルド人マハバード共和国の樹立(1946年)(写真:Unknown source / Wikimedia Commons[Public domain])

イランでも1941年からのモハマド・レザ・パフラヴィ―氏の政府は近代化政策の一環として、クルド語や伝統的な服装などクルド人の文化的表現を制限した。しかし第二次世界大戦中、マハバードを含むイラン北部の一部がソビエト社会主義共和国連邦の支配下に入ると、1945年にイラン・クルディスタン民主党(KDPI)が設立された.。そして1946年にはソ連の強力な支援を伴ってクルド人マハバード共和国を樹立した。ところが同年後半ソ連の撤退後、後ろ盾を失うと共和国はイラン軍によって再占領された。1年に満たない短命な国家だったが、その期間でもクルド文化の拠点として進歩を遂げた。

第二次世界大戦後のシリアイラクでは政府はアラブ化政策が進められ、肥沃な土地からクルド人を追い出す代わりにアラブ系農民を移住させるなどした。シリアでは1962年に国勢調査を実施し、特にアル・ハサカ県では他の県とは別にクルド人の人口を減らす試みがなされ、1945年以来シリアに住んでいたことを証明できなかった人々は市民権を奪われ、約12万人が無国籍者とされた。

クルド人組織の台頭

1970年代から1980年代にかけて、各国でクルド人の自治権拡大の要求が激化し、武力闘争が頻繁に発生した。トルコでは1978年にアブドゥラ・オジャラン氏はトルコ南東部に独立したクルディスタンを設立することを目的として、マルクス・レーニン主義に基づくクルド人労働者党(PKK)を組織した。PKKは1984年から武装闘争を開始し、トルコ政府にテロ組織に指定された。それ以来武力闘争で4万人以上が犠牲になっている。その動きがピークに達した1990年代半ばには独立国家の要求を撤回し、自治権の拡大を主張するようになる。1999年にはオジャラン氏は亡命先のケニアでトルコの諜報機関に拉致され、終身刑を言い渡された。PKKを強く敵対視していたトルコ政府だが、欧州連合への加盟を視野に入れていたため、クルド人の人権についてヨーロッパ各国から受けていた非難に配慮して2002年にクルド語の放送と教育を合法化した。

トルコ南東のハッキャーリ市。トルコの軍事作戦後の様子(写真:Nedim Yilmaz / Flickr[CC BY-SA 2.0])

イランでは1979年から1983年まで政府とクルド系勢力との紛争が発生し、この紛争では多くのクルド人の村や町が破壊され、約1万人のクルド人が殺害された。反乱以来、ホメイニ政権はクルド語の教育、治安機関を認めず、クルド系組織KDPIを非合法化した。1980年から1988年のイラン・イラク戦争ではイラクのサダム・フセイン政権はイランのクルド系勢力を、対してイラン政府はイラクのクルド系勢力を支援して国家間でクルド系勢力を介して戦争が行われた。イランで2004年にPKKに倣って結成されたゲリラ組織のクルディスタン自由生活党(PJAK)は、2011年の大規模な軍事作戦の後政府と停戦を締結したが小競り合いが続いている。

シリアでは2003年にPKKの分派として民主統一党(PYD)が設立される。2004年にはアル・ハサカ県の主要都市カミーシュリーでアラブ人とクルド人の間で乱闘が発生し、その犠牲者を追悼する行進が、大規模な抗議活動に発展した。

イラクでは1946年、クルド民主主義の父とされるムスタファ・バルザニ氏がマハバート共和国亡命中に後のクルド民主党(KDP)の原型を結成した。バース党政権下でクルド人自治の計画が実行に移されないとみると、KDPは1974年に戦闘を開始する。一方でクルド人同士の間でも分裂が生じ、1975年にジャラル・タラバニはKDPから分離したクルディスタン愛国同盟(PUK)を設立した。またイラクでは1980年代から1990年代のサダム政権下で行われたアンファール作戦で毒ガスや意図的な飢餓によって少なくとも5万人のクルド人を無差別に殺害され、それはジェノサイドと呼ばれた。

1991年の湾岸戦争でアメリカを主導とする多国籍軍にイラク政府が敗北すると、弱体したサダム政権に対する反乱が起きた。その影響で北部に逃れた難民への人道支援を目的として、アメリカが主導で設定した飛行禁止区域を後ろ盾に、両党は共同で自治を確立しようとした。しかし両党は対立し、1994年から武力紛争を起こした。そうした後、アメリカの侵攻によって2003年にサダム政権は倒されると、両党はクルディスタン地域政府(KRG)を擁してムスタファ氏の息子マスード・バルザニ氏を大統領としクルド人中心の連邦自治を実現させた。

イラク北部でパトロールするPKKの兵士(写真: nito / Shutterstock.com)

2010年代からの情勢の激変

2011年シリアではいわゆる「アラブの春」の一環で反政府デモが武力紛争へと発展すると、政府は反政府勢力に対抗するために、クルド人が多いシリア北部の行政機関や軍を主要な戦闘地域に移動させた。2012年、権力の空白が起きたこの機会にPYDは自治を宣言してシリア北部地域での行政を掌握し、治安維持のためPYDの武力組織であるクルド人民防衛隊(YPG)を設立した。ロジャヴァ革命と呼ばれるこの動きで、PYDはジェンダー平等に基づき多民族からなる民主主義的自治を掲げた。2013年にはYPGの女性部門である女性防衛隊(YPJ)が設立された。

2014年6月には「イスラム国」IS として知られる過激派組織が台頭し、イラク北部の大部分を掌握した。敗北したイラク政府軍の放棄した地域にKRGの武装組織であるペシュメルガ部隊が派遣された。多くの町が陥落し、シンジャールで数千人のヤジディ教徒が捕らえられ、殺害された。これに対してアメリカ率いる多国籍連合軍はイラク北部で空爆を開始し、軍事顧問を派遣してYPGとPKKとともにペシュメルガを支援した。

ISは シリアの大きな一部を占領した。2014年9月にはシリア北部のトルコとの国境線にある町コバニ周辺の飛び地を攻撃し、数万人が避難を余儀なくされた。トルコは戦場が近いものの、ISを攻撃することを拒否し、クルド人勢力の勢いが増すのを危惧して自国のクルド人が渡ってISと対抗するのも禁止した。2015年1月にクルド系勢力はコバニを取り戻した。同年YPGを主導にクルド人以外の民族も取り入れたシリア民主軍(SDF)は結成されるとISの勢力を着実にシリア北東部から追い出し、2017年にはシリアでISが首都にしていたラッカを占領した。2018年にはロジャヴァ革命の延長として、ISから奪取した地域も含めた北・東シリア自治局(AANES)という多民族からなる連邦自治政権が一方的に設立された。そして2019年3月にはクルド人部隊はISの最後の領土を征服した。

隣国に介入を繰り返すトルコ

PKKとトルコ政府との関係は、2013年に両者の間で一時停戦が合意されたものの、2015年シリア国境近くのクルド人の多い町でISの仕業とされる自爆テロで33人の活動家が死亡すると、PKKは当局の共謀だとして軍と警察を攻撃、停戦は崩壊した。

シリアに侵攻するトルコ軍(オリーブの枝作戦、2018年)(写真:VOA / Wikimedia Commons[Public domain])

トルコ政府はシリアのYPGをPKKの延長のテロ組織だとみなしてきた経緯があり、国外のPKK勢力討伐の目的で、2016年からシリアの別の反政府勢力を支援して何度もシリアに介入している。2018年アメリカがIS対策を名目に、SDFへの支援の強化を表明した。これに危機感を抱いたトルコはクルド人の支配するシリアのアフリンへ侵攻するオリーブの枝作戦を開始した。しかし意外なことに、長らくシリアのクルド系勢力を抑圧してきたアサド政権は方向を転換し、部隊を派遣してクルド人を支援した。トルコの侵攻を主権の侵害と危険視したと思われる。 2019年トルコは新たに平和の泉作戦を実行し占領したシリア北部土地に、武力勢力の接近や難民の流入を阻止する幅30~35kmの「安全地帯」を構築し、トルコ国内のシリア難民を再定住させた。

トルコはイラクへの介入も進め、2022年にはクロー・ロック作戦を開始してイラクに避難していたPKKに向けてドローンを中心とした攻撃をしかけたが、民間人にも被害が及んだ。イラク政府はトルコの主権侵害を非難するが経済的依存や内政の分裂により強硬な対抗策はとれていない。KRG傘下のKDPはトルコと協力し基地・情報提供しているものの、PUKは批判的な姿勢をとってきた。

新たな動き

2024年7月にトルコはクロー・ロック作戦を終了したがトルコ軍はイラク内の基地はそのまま維持しており、2024年12月時点で少なくとも136の基地がイラク北部で運営されている。KRGはトルコ政府と関係を深め、石油の輸出パイプランを通して独立した財源と自治を確立しようと試みていた。しかしながら 2014年頃からISとの戦いや原油価格の急落に伴い財政が圧迫され、公共部門の労働者への未払いが続いている。またKRG内でも様々な問題が発生しており、政府関係者による石油資産の流用が示唆されている。

KRGの自治地域では2017年に独立を図る住民投票が行われ、独立を押す意見が大半であったものの、中央政府や諸外国の反対に遭いこの地域は孤立化する結果となり、クルド系勢力の権利拡大の試みは失敗に終わった。2023年の国際仲裁裁判所による判決ではイラク連邦政府を無視してトルコへ独自に石油を輸出したことが違反とされ、KRGの主な財源であった石油パイプラインは停止された。

クルディスタンの独立を求める集会。イラク、エルビル市(2013年)(写真:Levi Clancy / Wikimedia Commons[CC BY-SA 4.0])

シリアにおいては2024年12月クルド系勢力にとって大きな変化があった。シリアで長年続いてきたアサド政権が崩壊したのだ。取って代わったシリアの新暫定政府は包括的な政府を樹立することを約束し、すべての武装勢力に武器を置くよう呼びかけた。アメリカによる調停の圧力もあり、2025年3月10日にシリアの暫定政府の指導者アフマド・アル・シャラー氏と、クルド人を中心とした多民族からなるSDFの指導者マズルム・アブディ氏との間で、国家再統合を図る協定が結ばれた。この協定はシリア北東部のすべての民間・軍事機関をシリア国家の行政にゆだねるという内容である。

しかし、トルコはシリアの反政府勢力を介してSDFに新たな攻勢を開始しており、SDFの支配下にある地域ではトルコのジェット機と無人機の依然とした攻撃の圧力にさらされている。また、北東部のSDFの管理するキャンプにはまだ4万人のIS家族と1万人のIS戦闘員が拘束されている。これらを懸念してSDFは武装解除には至っていない。シリア暫定政府との協定への否定的な意見も含め、シリアのクルド人組織と新政府の先行きは未だ不透明である。

シリアの政権交代から約2か月後、トルコでも大きな動きがあった。2025年2月に、1999以来投獄されているPKKのオジャラン氏がすべての組織の解散と武力解除を呼びかけたのだ。PKKはすぐに停戦を宣言し、5月には解散に至ったものの、シリアのSDFは、オジャラン氏の言った組織には当てはまらないとしている。

依然として各国内ではクルド系勢力に限らずあらゆる勢力が混在して動いており、先行きは不安定である。今後もその複雑な関係性がどう変動していくのか注視していきたい。

 

ライター:Morita Aoba

グラフィック:MIKI Yuna

 

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