2025年1月30日、ニカラグア議会において、大統領夫妻に広範な権限を与える憲法改定案が全会一致で二度目の承認を受けた。これにより、ダニエル・オルテガ大統領とその妻であるロサリオ・ムリーリョ副大統領が「共同大統領」に就任し、大統領の任期が5年から6年に延長されるとともに、無制限の再選が可能となった。また、それぞれの共同大統領は副大統領を何人でも選ぶことができるようになった。
このように大統領の権限が強化されることにより、2018年の社会保障改革に端を発した抗議活動以来続く人権侵害の、更なる深刻化が懸念されている。その理由として、司法や立法における大統領の権限強化や、治安維持を目的とする軍の警察行為への介入が、正式に憲法で明文化されることが挙げられている。GNVではこれまで、2024年11月22日に行われた憲法改定案の初回承認について報じた。本記事では、オルテガ大統領夫妻が上記のような憲法改定をするまでの歴史やその影響について、包括的にみていく。

ダニエル・オルテガ大統領(写真: Cubadebate / Flickr [CC BY-NC-SA 2.0])
ニカラグアの歴史
まずは、ニカラグアの歴史についてみていく。ニカラグアは中央アメリカの中心に位置し、北はホンジュラス、南はコスタリカと国境を接している。東はカリブ海、西は太平洋に面しており、中央アメリカでは最大の国土を有する国である。ニカラグアには紀元前12,000年から人が住んでいたという記録もある。現在のニカラグア領土には、アステカ帝国やマヤ帝国の影響を受けながらも独自の社会構造を保つ複数の先住民グループが結成されたが、統一された帝国は築かれなかった。
1522年頃からスペインによる侵攻が開始され、2年後の1524年には植民地化された。侵攻開始から30年以内に、約100万人いた先住民は数万人近くにまで激減したとされている。その理由の多くは戦争ではなく、スペイン人によって持ち込まれた伝染病などの疫病やスペインでの人身売買に巻き込まれたためだとされている。その後スペインから多くの入植者が定住していた。また、17世紀から18世紀にかけて、ニカラグア東岸に位置するモスキート・コーストはイギリスの保護領として支配されていた歴史もある。スペインなどの影響を受け、現在、ニカラグアの約半数がカトリックを信仰している。
1821年になり、ニカラグアはスペインからの独立を宣言したが、同様にスペインから独立したばかりのメキシコ第一帝国(※1)に編入された。完全な独立に向けての動きはあったものの、1823年にニカラグアはコスタリカやエルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラスを含む中央アメリカ連合州の一部に組み込まれた。その後、同連邦内での紛争を理由に、ニカラグアは1838年に脱退したことで、完全なる独立国家となった。独立後は、スペインの植民都市である、グラナダとレオンにおいて政治主義の対立が続いた。グラナダは中央集権的でリベラルな自由派の拠点、レオンは地方分権を重視する保守派の拠点だった。
19世紀後半頃には、ニカラグアは太平洋と大西洋を結ぶ運河の建設地として注目され、アメリカがニカラグアに影響を及ぼすようになった。ニカラグアを含む中南米諸国は、1898年の米西戦争以降、アメリカの軍事介入や政治的干渉が度々行われた地域でもあり、「バナナ共和国」と呼ばれることもある。この名称は、ユナイテッド・フルーツ・カンパニーのようなアメリカの企業が中南米諸国に進出し、アメリカの経済的利益がこれらの国々に強い影響を与えていたという状況に由来する。そんな中、アメリカはニカラグア内における、自由派と保守派という政治主義の対立を利用し、ニカラグアの政治に介入した。例えば、1855年に、アメリカの傭兵であるウィリアム・ウォーカー氏は自由派と軍事契約を結んだ。自由派が保守派との戦争に勝利した際、ウォーカー氏は自由派での権力を掌握し、1856年にはニカラグアの大統領を自称した。ウォーカー氏は中央アメリカでの影響力拡大を試みたが、これを懸念した近隣諸国との戦いに敗れ、1857年に大統領を辞職した。
以降、保守党による統治が続いたが、1893年に自由派のホセ・サントス・セラヤ氏が反乱を起こし、大統領に就任した。セラヤ氏は自由主義者でありながらも独裁的な手段で政治を行っていた。また、運河建設権を巡ってアメリカと対立した。1909年にはアメリカの軍事介入を受け、セラヤ氏は辞任し、保守派の大統領が新たに就任することとなった。その後、保守派政権はアメリカとブライアン・チャモロ条約を結び、運河や軍事基地の設立を認めた。これは、1925年8月にアメリカ軍がニカラグアから一時撤退するまで続いた。
その後も、保守派と自由派による争いは絶えず、1926年5月には、アメリカ軍が再びニカラグアに介入した。その際、アメリカ軍は保守派と自由派の和平を仲介し、1927年に終戦した。終戦後には大統領選挙が行われ、1933年にフアン・バウティスタ・サカサ氏が大統領に就任すると同時に、アメリカ軍は撤兵した。

アメリカ下院議長に歓迎されるソモサ氏(写真: Harris & Ewing / Wikimedia Commons [public domain])
その後、ニカラグアの国家警備隊の長を務めていたアナスタシオ・ソモサ・ガルシア氏は自由派と保守派の両派閥の支持を得てサカサ氏を退陣させるとともに、不正選挙を通じ、1937年に大統領に就任した。ここから1979年まで、ソモサ一族による独裁体制が敷かれることとなった。その裏にはアメリカ政府による経済的、軍事的支援があったとされている。こうした経済的支援により、富を得たソモサ一族やその関係者たちは農地の買い占めを拡大し、約20万人の農民から土地を奪ったともいわれている。
彼らは農業に加え、鉱業や金融業などの主要産業を支配することで、ソモサ一族並びに現地企業やアメリカの企業たちの、莫大な富の獲得を可能にした。その一方で、国民の大半は貧困に陥っていたとされる。1961年には、ソモサ政権やアメリカ政府による支配からニカラグアを解放するべく、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が設立された。当時、FSLNはソ連からの支援を受けていた。1979年7月、FSLNが主導する反政府勢力はソモサ政権に対して革命を起こし、ソモサ一族による独裁政権は終焉を迎えた。
サンディニスタ革命以降の政治
革命後の1979年7月に、FSLNは現ニカラグア大統領である、ダニエル・オルテガ氏を筆頭に複数名の指導者からなる国家再建政府を樹立するとともに、翌1980年には国家評議会を設立した。オルテガ氏は1980年から1985年まで大統領を務めた。同政府は貧困問題の改善や富の再分配を目指し、土地改革や主要産業の国有化を実施した。新憲法として機能した法令では国民の基本的な権利や自由を保証しており、サンディニスタ革命は民主化の一途を辿りつつあったと指摘されている。

FSLNと戦争中のコントラの兵士たち(写真: Tiomono / Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])
しかしながら、この革命を共産主義への転換とみたアメリカは、再びニカラグアへの介入を強めるようになった。当時のロナルド・レーガン大統領は、コントラ(※2)を代表とする反政府勢力に対して、経済的、軍事的支援を行った。そんな中、1984年、ニカラグア政府はアメリカによる自国の領海への機雷の設置が、国際法違反であるとして国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。1986年に、ICJはアメリカの当該行為が国際法に反すると判断し、ニカラグアへの損害賠償を命じたが、アメリカはこの問題におけるICJの管轄権を認めず、判決を受け入れなかった。コントラとFSLN間での戦争は、停戦が成立する1988年まで続いた。その間、コントラによる人権侵害が多発し、約8,000人の民間人と910人の政府職員を殺害したとされている。
1990年には、終戦後初めての大統領選挙が実施された。当選挙において、FSLNはアメリカが支援する国家野党連合(UNO)に敗れ、ビオレタ・バリオス・デ・チャモロ氏が大統領に就任した。チャモロ政権ではFSLNの政策の多くを覆す改革が行われた。その例に、オルテガ氏の弟で元陸軍司令官ウンベルト・オルテガ氏を辞任させたことが挙げられる。彼の辞任は軍に対する文民統制の強化や軍の安定性を増したとも言われている。コントラの武装解除や国軍の縮小など、国家の平和促進に取り組んだとされる。
そして、チャモロ政権下では自由主義的な経済改革も行われており、国際通貨基金(IMF)や世界銀行との合意を結び、融資なども受けていた。特に、「100日計画」または「マヨラガ計画」とも呼ばれる経済政策では、国家の財政赤字削減とインフレの抑制を目指した。しかし、この計画によって生じた失業率や物価の上昇は、国中で公共部門と民間部門のストライキを引き起こす結果となった。

FSLNの壁画(写真: Garrett Ziegler / Flickr [CC BY-NC-ND 2.0])
その後も、新自由主義的なイデオロギーを持つ政権が続いたが、FSLNのオルテガ氏は2006年11月に大統領に再選した。その要因として、ニカラグアにおける深刻な貧困問題の改善を強く訴えたことが指摘されている。他にも、カトリック教会の支持を得ることができたのも、オルテガ再選の一因だったとされている。その例に、選挙前には、FSLNが多数を占める議会において、教会が長年求めていた中絶禁止法案を可決したことが挙げられる。
就任当初、オルテガ氏は近年の自由主義経済を支持した。例えば、2006年に締結された中米自由貿易協定(DR-CAFTA)により、外資の投資を誘致した。その結果、ニカラグアにおける雇用の創出並びに経済発展が促進したとされる。また、近隣諸国との平和的関係の構築にも努めた。具体的には、ホンジュラスとの長年にわたる海域を巡った問題や、ニカラグアとコスタリカの国境を流れるサン・ファン川の利用をめぐる紛争の解決にも貢献した。
加えて、政権における権力基盤を強化する側面もあった。2011年10月には、大統領の連続再選を禁じる憲法上の規定を解除し、同年11月の大統領選挙で再選を果たした。さらに、議会選挙においては、オルテガ氏の所属するFSLNは90議席のうち62議席を獲得し、議会でも所属政党の後押しを受けることができるようになった。2016年には、3期連続で大統領選挙に立候補できるようにするための、憲法改定案が承認された。2017年からは、オルテガ氏の妻であるロサリオ・ムリーリョ氏が副大統領に就任している。

2018年のデモ行進(写真: Jorge Mejía peralta / Wikimedia Commons [CC BY 2.0])
しかし、FSLNの支配に対する抵抗もあった。例えば、2018年4月には、社会保障制度改革をきっかけに数日間に及ぶデモが行われたが、政府はそれを暴力的に弾圧した。その内容、社会保障の財源を確保するために、労働者と雇用主の納税額を引き上げること、年金受給者に対して、年金の給付額を削減するというものだった。その後、デモに対する政府の弾圧に抗議した国民数万人が、再び首都でデモ行進を行った。同年7月までにデモなどの抗議活動関連で死亡した人の数が300人以上に上るとされている。これを受け、オルテガ氏は最終的にこの改定案を撤回した。また、デモにおいて、教会が抗議活動家に協力的な姿勢を示したことをきっかけに、カトリック教会とオルテガ氏の良好な関係は崩れたとされている。
これ以降も、ニカラグアでの人権侵害は継続しており、政府を批判する者に対しての侵害は次第に拡大、激化していると述べる、2024年9月に公開された国連の報告書も存在する。その報告書によると、政府に対して抗議の拠点となっていた宗教団体やNGO団体への抑圧も悪化していると言われている。実際、2023年10月から2024年1月の間に、少なくとも27人のカトリック司祭や教徒が不当に逮捕されたり、31人の聖職者が長期間拘留された後、国外追放されたりしている。また、2024年8月には、1,500のNGO団体を非合法化しており、これまで合計で5,000以上のNGOや大学、メディアを解体したとも言われている。
憲法改定の影響と評価
このように、近年、ニカラグアでは権威主義化や人権侵害の激化が強まりつつある。そんな中、2025年1月30日、ニカラグア議会において、大統領夫妻に広範な権限を与える憲法改定案が全会一致で承認され、正式に発効することが決まった。この憲法改定はオルテガ夫妻とその家族の大統領継承を保証し、一族の権力を永続させるためのものだという指摘もある。冒頭でも触れたように、この憲法改定により、オルテガ大統領夫妻が共同大統領として司法や立法における権限を強化するだけでなく、治安維持を目的とする軍の警察行為への介入が、法により正当化されることとなる。
また、政府に批判的な人物を「祖国の反逆者」と認定し、その人々の国籍を剥奪することが合法化されるといった影響もある。この措置は合法化以前にも行われており、2023年2月、ニカラグアの裁判所は政府に批判的な人権活動家やジャーナリストたち94人の国籍を剥奪したという事例もある。しかしながら、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、この措置を国際法に違反するとして、批判している。また、国籍の剥奪以外にも迫害や投獄といった弾圧も蔓延しており、野党幹部や大統領候補もこうした弾圧に巻き込まれている。

学生たちによるデモ(写真: Jorge Mejía peralta / Flickr [CC BY 2.0])
加えて、憲法改定はメディアに対する統制も強化している。政府がニカラグアの報道機関に規制をする際、その機関がアメリカなど外国からの影響を受けていると主張することもあった。その場合、「外国の利益」の存在を証明することが必要であった。しかし、今回の改定により「外国の利益」の立証が不要となり、政府はより幅広い報道に対して制限を加えることが可能となったのである。また、そのメディア関係者には政府による弾圧を受け、亡命している者も多く、大半の独立系メディアや反政府メディアはニカラグア国外で運営されている。
展望
これまで、ニカラグアの歴史や権威主義化、人権侵害の激化ついて記した。そんなニカラグアにも民主主義化への道や、人権侵害の改善の余地はあるのだろうか。現政権に反対する野党や反政府勢力の一部は政府の手により、国外に追放されたり、国籍を奪われたりしている。国外追放された野党勢力が結束できておらず、ニカラグア国民として他国に対して統一したメッセージを発信できていないという声も上がっている。また、こうした状況が影響し、ニカラグア国内の問題に対する他国での関心が不十分だという指摘もある。
しかし、国外からの声がないとも限らない。国連の人権専門家は2025年4月に、ニカラグアにおける組織的な人権侵害への関与が疑われる政府高官や軍関係者など計54人のリストを公表した。とはいえ、依然として改善の目途は見えず、状況は厳しい。今後、国外からの政府に対する圧力が政権を打倒するか、また、国民の団結のもと政治が変わっていくか注目していきたい。
※1 1821年から1823年にかけてメキシコに存在した立憲君主国。
※2 FSLN政権の打倒を目指した反革命勢力の一種。元々、コントラはソモサ政権下では国家警備隊を務めていた。
ライター:Hayato Ishimoto
グラフィック:MIKI Yuna
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