ソマリランドの行方とは?

by | 2024年11月21日 | Global View, サハラ以南アフリカ, 中東・北アフリカ, 共生・移動, 政治, 紛争・軍事

2024年11月、アフリカの角に位置するソマリランドは4度目の大統領選挙を実施し、100万人以上が投票した。選挙の結果、野党指導者のアブディラフマン・モハメド・アブドゥラヒ氏(通称イロ)が当選を宣言し、民主的かつ平和的な政権移譲が行われるだろう。

ソマリランドは憲法に基づき、多党制選挙を実施している。法、軍事、警察、官僚制度に至るまで、他の国家と同等の統治手段も維持し、独自の通貨も流通している。1991年にソマリアからの分離独立を宣言し、事実上の独立を果たした。しかし、ソマリランドを独立国家として承認している国連加盟国はない。

ソマリランドがソマリアから分離独立した背景には何があり、なぜ他の国から承認されないのか。また、現在のソマリランドが直面している課題とは何か、本記事で探る。

ソマリランドのハルゲイサ首都にある戦争記念碑(写真:Buufin / Wikimedia Commons [CC0 1.0])

歴史的背景

1,000年以上にわたって、現在のソマリアとソマリランドの海岸線は、アフリカとアラビア半島などを結ぶ貿易港が複数存在していた。この地域に住む多くの人々はソマリ人と呼ばれるグループであり、言語(ソマリ語)、宗教(イスラム教)、文化を共有してきた。中世の時代にはイスラム教のスルタンによる支配国がいくつか設立されたが、全領域を支配する政治主体は生まれなかった。また、この時代、ソマリ人の多くは遊牧民で、放牧地を求めて移動していた。

オスマン帝国は16世紀に現在のソマリランドの一部を占領したが、この帝国が弱体化し始めるとエジプトがソマリア地域に影響力を及ぼすようになった。1869年にスエズ運河が開通すると、この地域に対するヨーロッパの関心が高まり、イギリス、イタリア、フランスが進出し、互いに領土の支配を競い始めた。現在のソマリランドの領土がある地域ではイギリスが保護領を宣言し、占領した。イタリアはソマリランド以外のソマリアと現在のエリトリアを占領した。当時、フランスは現在のジブチ(当時のフランス領ソマリランド)を支配下に置いた。これらのヨーロッパ列強と植民地化されていなかったエチオピア皇帝との間で、アフリカの角の国境画定に関する一連の協定が結ばれた。

ヨーロッパ列強による占領に抵抗した勢力も生まれた。この地域では、氏族(※1)のアイデンティティが比較的に強かったが、この抵抗がソマリ人としてナショナリズムの台頭につながり、ソマリ人が住む地域の統一が推し進められることとなった。1960年6月26日、旧イギリス領ソマリランドが独立し、その5日後には旧イタリア植民地(現在のソマリア)も独立した。両者は直ちにソマリア共和国として統合された。ソマリランドが独立国家であったのは1週間足らずであった。

しかし、この連合は当初から不安定だった。首都モガディシュを拠点とする旧イタリア植民地(南部)が国の統治を独占し、旧イギリス植民地(北部)が政治・経済においても不利な状態に置かれた。また、1969年にモハメド・シアド・バーレ将軍がクーデターによって政権を握ったことで、状況はさらに悪化した。バーレ氏の強権的な政府は国全体に対して抑圧的で、北部やその他の地域での憤慨を招いた。

その後、バーレ氏はソマリアとエチオピアに対して戦争を起こした(1977〜1978年)ことで地域は不安定になり、中央政府による北部への弾圧の強化につながった。これに対して1980年代に、ソマリ国民運動(SNM)などの反政府勢力が北部で生まれた。バーレ政権がこの反乱を制圧しようと、強力な反撃に出る。推定20万人が殺害され、北部最大の都市ハルゲイサの最大90%が破壊された。

再びの独立と国家建設

北部だけでなく南部でも反乱が起こり、政府に対する武力行為が強まった。弱まったバーレ政権は1991年1月に崩壊した。同時にソマリアの中央政府自体も崩壊し、軍閥グループ(ウォーロード)がモガディシュの支配権を争うようになった。南部政府の崩壊を受けて、SNMは北部で停戦を呼びかけ、和平プロセスを開始した。SNMは直ちに、バーレ政権側で戦った人々を含む北部全域のコミュニティ指導者を結集した。停戦はすぐに実現し、1991年5月、集合した指導者は南部との連合を解消することに合意し、ハルゲイサを首都とするソマリランド共和国として独立を宣言した。中央政府を復活させることができず、首都をめぐる争いが続いていた南部ソマリアは、北部の離脱を阻止することができず、ソマリランドの事実上の独立は現実のものとなった。

独立後のソマリランドでは、当初、氏族間の権力分与の取り決めに基づいて統治が行われた。 外部からの支援や承認はなかったが、指導者たちは1990年代を通じて和平と国家建設のプロセスを積極的に進めた。1993年に和平憲章が採択され、1993年と1997年に異なるグループの代表の投票のみで大統領を選出する間接選挙が実施された。ムハンマド・ハジ・イブラヒム・エガル氏が両選挙で勝利し、2002年に死去するまで大統領を務めた。

2001年、国民投票が実施され、憲法の導入が承認された。これにより多党制民主主義体制が確立された。 政党が結成され、2003年には同憲法下で初の直接選挙(一人一票)が実施された。その後も選挙は2010年、2017年、2024年にも実施され、それぞれの選挙で新しい大統領が誕生することになる。

大統領選挙の実施についての合意に署名する党首たち(2020年)。イロ氏(右)はその後の2024年の選挙で当選(写真:Somaliland Presidency / Wikimedia Commons [Public domain])

不安定化するソマリランド

独立宣言以来、ソマリランドは概ね安定を保ってきたが、近年、東の国境に隣接するソマリアのプントランド地方との間で緊張が高まっている。プントランドは名目上ソマリアの一部だが、中央政府からの干渉をあまり受けずに、自治区となっている。ソマリランドとプントランド自治区はともに、スール、サナーグ、カイン(別称ブーホードレ)という国境付近の地方の領有権を主張する。ソマリランドの主張は、この地域がイギリスの支配下にあったときに引かれたソマリランドの国境線内に位置している。一方、プントランドはこの地域に住む人々の共通の氏族アイデンティティに基づいて領土を主張している。

当初、ソマリランドとプントランド自治区は政治的な対立にとどまっていたが、2007年に武力対立に発展した。ソマリランド軍がスール地方の都市ラス・アノドに侵攻し、プントランド軍を追放した。しかし、ソマリランドによる統治への不満から、地元から誕生した第3の勢力が台頭した。その名称は争われていた3地方であるスール、サナーグ、カインの頭文字(SSC)から取られ、後にSSCチャツモ(チャツモは前向きな結論を意味する)と呼ばれるようになった。2022年12月、ソマリランドとSSCチャツモの間で紛争が勃発し、後者がソマリランド軍をラス・アノドから追い出し、ソマリランド東部地域の一部を掌握した。

ソマリランドは政治的な挫折にも見舞われている。2022年に実施されるはずだった大統領選挙は2度延期され、最終的には2024年に実施された。延期の原因は財政的な制約もあるが、それ以上に重要なのは、選挙の時期やソマリランドの政治に参加できる政党の決定に関する対立であった。SSCチャツモが2022年に攻勢をかける際、ソマリランドのこの政治的不安定を利用したと考えられている。

SSCチャツモの検問所の様子、ラス・アノド市(写真:Danesrmithpl8 / Wikimedia Commons [Public domain])

ソマリアとの関係

ソマリアは現在もソマリランドを自国の領土だと主張しているが、ソマリア自身が国家として十分に確立されていないため、再統一に向けた本格的な行動をとることができていない。ソマリアは何年もかけて連邦統治制度を導入することに成功したものの、実際のところ、国家は深く分裂したままである。例えば、2024年3月、プントランド自治区は憲法改定の国民投票が実施されるまで、同国の連邦制から離脱すると発表した。しかし治安などの理由などから、ソマリアは国民が投票することが困難であり、全国での国民投票は近い将来実現しそうにない。ソマリアはまた、領土の大部分で反政府勢力アル・シャバブの武力攻撃に直面し続けている。このような要因が重なっていることが領土に対する効果的な統治がまだできていない理由である。

多くの点で、ソマリランドはソマリアよりも「国家」として機能しており、ソマリランドにはソマリアと再び統一する動機がほとんどない。そのような中、両当事者間の協議は過去に複数回(2012〜2020年、2023年)行われている 。しかし、これらの協議の中で統一に関する実質的な議論に至ったものはない。

ソマリランド東部におけるソマリランド政府とSSCチャツモの紛争は、ソマリアにとって有利な結果となった。2023年2月、ソマリランド軍を押し返したSSCチャツモは、プントランド政府との決別を決定し、ソマリア連邦に加わると発表した。 同年10月、ソマリア政府はSSCチャツモ政権を受け入れ、承認した。こうして、ソマリランドの支配下にあった広大な領土が、名目上ではあるものの、ソマリアの支配下に戻った。

他国との関係

近年ではソマリアランドと他国との関係も、ソマリアとソマリランドの対立を高めている。例えば2018年、アラブ首長国連邦(UAE)はソマリランドに軍事基地を建設し、ソマリランド軍を訓練する協定に調印した。後に基地は中止された。UAEはイエメンへの軍事介入の一環としてこの基地を使用する予定だった。同年、UAE、エチオピア、ソマリランドはベルベラ港の開発契約に調印した。UAE企業のDPワールドが港を開発・管理することが合意された。ソマリアは、ソマリランドはソマリアの一部であり、自国の領土において他国と協定を結ぶことができるのはソマリアの中央政府のみだと抗議した。

ベルベラ港の様子(写真:Lakmi00 / Wikimedia Commons [CC BY-SA 4.0])

2024年1月、エチオピアはソマリランドとの間で港の利用に関する覚書を交わした。これにより、内陸国のエチオピアはベルベラ港付近の海岸線20キロメートルを50年間、海軍部隊のために利用できるようになる。その見返りとして、エチオピアはソマリランドを正式に承認する。ソマリアから見れば、これはソマリア領土に無許可の外国軍基地が存在することを意味する。ソマリアはこれまで、アル・シャバブとの戦いにおいてソマリアに駐留するエチオピア軍にある程度依存してきたが、この覚書が取り消されなければ、ソマリアはこの駐留の継続を認めないとしている。その代わりに、エチオピアと対立関係にあるエジプトは、ソマリアに兵力と軍備を提供することとなった。

また、台湾とソマリランドの関係も近年強化されつつある。2020年には外交関係を樹立し、それぞれの首都に外交使節団を開設した。また、援助、貿易、投資プロジェクトによる関係も強化されている。台湾とソマリランドは事実上は民主国家として機能しているにもかかわらず、両者共に他国からほとんど承認されていないという事実が、両者を結び付けている。こうした動きに対して、ソマリアだけでなく、台湾の領有権を主張する中国も反発している。

承認問題

上述したように、ソマリランドはソマリアからの事実上の独立を獲得しており、30年以上にわたって「独立国家」として機能してきた。

しかし、ソマリランドの「独立」がどの程度の意味を持つかは、ソマリア、そして他の国連加盟諸国次第である。ソマリア政府はソマリランドの領有権を主張し続けており、この立場が近い将来に変わるとは考えにくい。また、SSCチャツモがソマリランドの一部を奪取し、ソマリア領土への復帰を決めたことは、ソマリア政府にある程度の希望を与えたように見える。 その一方で、ソマリアはいまだに多くの点で国家として機能しておらず、ソマリランドと再び統一する望みが薄い。

ソマリランド政府が発行しているパスポート(左から:一般用、議員・公務員用、外交官用)(写真:Siirski / Wikimedia Commons [Public domain])

国際的な承認については、今のところ、ソマリランドを承認しているのは、自国も国家として国際的に承認されていない台湾のみだが、エチオピアが承認することで合意している。今後、ケニアとUAEがソマリランドを承認する可能性もあるとみる専門家もいる。また、ソマリランドの承認に関する議論において、アフリカ連合(AU)の姿勢も重要な要素である。AUは過去にソマリランドの独立の可能性を検討する措置をとったことがあるが、今のところ独立には消極的なようである。これは、アフリカ大陸で1箇所でも国境の変更を認めれば、他の国においても国境の変化を求める声が高まる懸念があるようだ。また、自国に分離独立運動を抱える一部のAU加盟国が、ソマリランドの独立が前例となることを恐れ、反対していることが関係しているとも考えられている

ソマリランドが独立を主張する根拠は強いとも言える。第一に、ソマリランドは1960年に5日間だけとはいえ、かつては独立国であった。当時は35カ国から承認されていたという事実もある。さらに、ソマリランドの境界線は、他の大陸の大半の国境線がそうであるように、植民地時代の境界線に沿ったものとなる。

興味深いことに、多くの西側諸国はソマリランドと非公式な関係を持っている。いくらかの支援を提供し、選挙が行わえる際、ソマリランドに選挙監視員を派遣したこともある。しかしこれらの国も、ソマリアとソマリランドを単一の存在として扱い続けている。また、ソマリランドが台湾との関係を維持する限り、中国は国連加盟を阻止するだろう。

ソマリランドが他国から国家として承認されていないことは、多くの結果をもたらしている。国際舞台では、AUや国連などの地域・国際機関での交渉や意思決定に参加することができない。さらに、世界銀行や国際通貨基金(IMF)などの国際機関からの融資を受ける資格もない。

ソマリランド警察25周年記念パレードの様子(2018年)(写真:VOA Somali / Wikimedia Commons [Public domain])

ソマリランドがソマリアの一部として扱われていることも、他の問題の原因となっている。ソマリアで続く武力紛争や頻発するテロ事件は、比較的に安定しているソマリランドへの投資、援助、観光などを阻害している。その理由の一つは、ソマリランドの状況をソマリアと区別しない多くの国の渡航勧告にある。さらに、武力紛争が原因でソマリアに科されている武器の輸入禁止は国際法上ソマリランドにも適用されるため、ソマリランドの警察などは武器の入手が困難である。

他方で、ソマリランドが非常に困難な状況下で民主的な国家を自力で構築させたことは、他国からの「支援」の利点について疑問を投げかけている。ソマリアは対照的に、安定化、平和、国家建設を促すという名目で、他国から何度も軍事介入を受け、多額の支援を受けてきたにもかかわらず、どれほどの成果をあげることができたかが疑わしい。

一歩前進?

ソマリランドの今後の道のりは楽なものではない。SSCチャツモとの戦いで領土の一部を失った。また、2024年1月にソマリランドが承認と引き換えに海岸の提供を約束したエチオピアとの協定を結んだことで、ソマリアとの緊張は大きく高まっている。しかし、この緊張が武力紛争に発展する可能性は高くないと見ている専門家が多い。

また、2024年11月の大統領選挙が成功したことで、安定した民主的な「国家」というイメージを他国に示すことができたとも言える。これがすぐに承認につながる可能性は低いが、その方向への前進の一歩となるかもしれない。

 

※1 ソマリアでの氏族について:「ソマリアの人口のうち大半はソマリ民族というアイデンティティを持っているが、民族的区分は比較的少ない。一方で特徴的なのは氏族の存在である。血縁関係によって定められる氏族は、ソマリアでの生活における様々な意思決定に影響を及ぼしている。」

 

ライター:Virgil Hawkins

グラフィック:MIKI Yuna

 

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