2024年6月8日、セルビアの首都ベオグラードで史上初の「全セルビア人の集会」が開催された。セルビア共和国の大統領とセルビア正教会の総主教の他に、集会の来賓として出席したのが、隣国のボスニア・ヘルツェゴビナ(以下、ボスニアと呼ぶ)の一部であるスルプスカ共和国という、人口の大半が「セルビア人」というアイデンティティーを持つ地域の代表団であった。
「一民族一集会」を合言葉に、この集会では「全てのセルビア人の統一性」をお互いに認識し、絆を深め、セルビア人はどこに住んでいても、セルビア人だという誇りを持っていることを世界に向かって表明することが目的だったという。
ボスニアは、越境する民族のアイデンティティーや国内外の政治が複雑に絡み合い、近年、分裂の危機に直面しているとまで言われる。その背景に何があるのだろうか。

「全セルビア人の集会」の様子(写真:Slobodan Miljević / srbija.gov.rs[CC BY-NC-ND 3.0 RS])
ボスニアの政治体制とアイデンティティー
ボスニアは中南欧にあるバルカン半島に位置し、西と北をクロアチア、東をセルビア、南をモンテネグロに囲まれている。ボスニアは行政や民族関係が複雑な国で、民族や宗教のアイデンティティーに基づいて、「スルプスカ共和国」と、「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」という2つの地域(構成体)に区分されている。これらの構成体は、全国レベルの議会で繋がっているのだが、法制や行政などにおいて中央政府からの独立性が高く、それぞれの大統領もいる。
構成体別で見ると、スルプスカ共和国の人口の81%がセルビア人(セルビア正教会の信者)というアイデンティティーを持つ 。一方、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦では、人口の70%が「ボシュニャク人」(ボスニアのイスラム教徒)のアイデンティティーを持っており、22%が「クロアチア人」(カトリック教会の信者)のアイデンティーを持つ。全国レベルではボスニアでは、セルビア人、ボシュニャク人、クロアチア人のそれぞれの民族を代表する大統領がおり、国政もこの3つのアイデンティティーのグループの複雑な関係で動いている。
それぞれのアイデンティティーがあるとはいえ、ボスニアはひとつの国となっており、国民には「ボスニア人」というアイデンティティーもあると思われる。しかし、セルビア系住民において、「ボスニア人」という国民意識よりも、「セルビア人」という意識が近年、特に顕著に現れている傾向にある。スルプスカ共和国の大統領を担っているミロラド・ドディク氏は近年、ボスニアからのスルプスカ共和国の分離の可能性について頻繁に発言している。さらに、スルプスカ共和国のセルビア人は他の何者でもなくセルビア人だと強調し続けている。
「民族紛争」から生まれた国、ボスニア・ヘルツェゴビナ
旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は6つの共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)からなっていた社会主義国家だったが、冷戦ではソ連の影響を免れることに成功し、中立の立場を保った。
1991年の時点でユーゴスラビアの人口はアイデンティティー別でみると、セルビア人が約36%、クロアチア人が19.7%、ムスリム(現在ボシュニャク人という)が8.9%、スロベニア人が7.8%、アルバニア人が7.7%、マケドニア人が5.9%、ユーゴスラビア人が5.4%、モンテネグロが2.5%、ハンガリー人が約2%という構成であった。
ソ連の分裂や共産主義の崩壊に伴い、1989年以降のユーゴスラビアは経済的困難にもさらされた。各共和国の中に民族主義や独立、またはユーゴスラビアの中での共和国の自治の拡大など、様々な意見や主張が現れ、これらのことによりユーゴスラビアの6つの共和国間の関係が崩れ始めた。1990年にクロアチアとスロベニアではそれぞれ共産主義でない政党が選挙に勝った。さらに、クロアチア政府がさらなる自治や権利をユーゴスラビア議会に向かって要求したことを契機に、クロアチアに住んでいたセルビア人はこれに不満を募らせた。
1991年にスロベニアとクロアチアが独立を宣言すると、独立に反対していたセルビア人と独立を求めるクロアチア人が衝突した。その間セルビアで莫大な権力を握ることに成功したセルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領がユーゴスラビア人民軍をセルビア人の援助に向かわせ、独立宣言をしたばかりのスロベニアとクロアチアは紛争に陥った。スロベニアではたった10日間でユーゴスラビア人民軍が襲撃を諦め撤退したが、クロアチアではセルビア人が多くを占めていた地域で紛争は長期化していった。その後、マケドニアも独立宣言をすることとなる。
クロアチア、スロベニア、マケドニアに次いでボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言するだろうと予想がついたため、当時ボスニアの人口の43%を占めていたボシュニャク人と17%のクロアチア人に対し、人口の31%を占めていたセルビア人は、クロアチアのセルビア人と同じようにこれに強く反対した。1992年にボスニア領土の中でセルビア人が特に多かった地域で「セルビア人共和国」という自主独立体がセルビア系の政治家などによって樹立された。ボスニアから分離してセルビア・モンテネグロと合併することで全てのセルビア人が同じ国家に集まることを目指していると表明した。1992年に行われたボスニアの独立を決める住民投票をボスニアのセルビア人はボイコットするが、投票に参加したボスニア人(ボシュニャク人とクロアチア人)の98%がユーゴスラビアからの独立に賛成し、1992年3月3日に当時のボスニアのアリヤ・イゼットベゴヴィッチ大統領は公式に独立宣言を行う。
これを機に、ボスニア全国に散らばっていた少し前まで他の民族と共存していたセルビア人とボシュニャク人とクロアチア人の間に激しい武力衝突が展開し、1992年4月中旬までにはボスニア全国が紛争に包まれていた。セルビア系勢力とボシュニャク系勢力のみならず、紛争の当初はセルビア系勢力に挑むために同盟を結んでいたボシュニャク系勢力とクロアチア系勢力の間にも紛争が勃発した。ボスニアでの戦争はその後3年半続いた。

ボスニアのサラエボ首都。紛争の爪痕が残るビル(写真:Michał Huniewicz / Wikimedia[CC BY 2.0])
この紛争で特徴的だったのが顕著に行われていたいわゆる「民族浄化」(エスニック・クレンジング)だった。ボスニア全国で幅広く見られ、他の民族の人たちを強制的に移住させたり殺害したりすることで、セルビア人・ボシュニャク人・クロアチア人それぞれの民族が住む地域を作り上げて、ボスニアを区分する行為が全国にわたって盛んに行われていた。その結果、紛争が終わった頃には200万以上の人が避難を余儀なくされ、大量虐殺の事件も多発した。
ボスニア紛争にたいして、国連は数万人規模の国際連合保護隊(UNPROFOR)という平和維持部隊(PKO)を送り込んだ。また、主にセルビア系勢力の攻撃からボシュニャク系住民を保護するため、国連安全保障理事会がボスニアの6ヶ所で安全地帯を設置し、武装勢力による侵入を禁じた。ところが、1995年に国連の安全地帯に指定され、PKOも展開していたスレブレニツァという町にセルビア系勢力が侵入し、8,000人以上の主に男性のボシュニャク人が殺害された。
ボスニア紛争には外国勢力も関わっていた。アメリカの仲介により、1994年にクロアチア系勢力とボシュニャク系勢力の紛争が終わり、同盟も再び締結された。さらに、セルビア系勢力が侵攻を続けるにつれ、北大西洋条約機構(NATO)も参戦し、セルビア人勢力に対して空爆を始めた。やがてセルビア人勢力は戦闘を続けることが困難になり、新たな協議への道が開かれた。交渉にはアメリカが仲介し、1995年11月に同国オハイオ州のデイトン市で交渉が始まった。ボスニア、クロアチア、ユーゴスラビア(元々6つの共和国から2つだけ残ったセルビアとモンテネグロだけで構成されていた)などの代表団が参加した。アメリカの交渉が行われた場所にちなんで、デイトン合意と名付けられた終戦条件などを決める和平合意が成立し、ボスニア紛争は終焉を迎える。
デイトン合意で決めた複雑な地方行政区分
デイトン合意では、終戦が決まり、さらにボスニアの地方行政区分と政体が合意された。セルビア人主体のスルプスカ共和国に、ボシュニャク人とクロアチアが人口の大多数を占めるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、ブルチュコ区域(前述の構成体が共同行政)の3つの構成体(2つの国家と一つの区域)が、ボスニア・ヘルツェゴビナという一つの国家となった。ボスニアの憲法には、各構成体の離脱に関する言及がない。
紛争前のボスニアにおいて、一つの民族だけが優位な立場にあるような地域は存在せず、ボスニア全国で全てのユーゴスラビアの民族が同様の扱いを受け、同じ法律が適用されていた。つまりボスニアにおいて、指定された地域としては「セルビア人の地帯」は存在しなかった。ところが、デイトン合意によりスルプスカ共和国の境界線が引かれ形が与えられたことで、「セルビア人の領土」の存在を正当化したとも考えられる。デイトン合意で決められた地方行政に関しては、2つの構成体は中央議会で共同で行政している部分もあれば、両構成体の独立性も高く、それぞれの構成体のみが担当している行政権もあり、非常に複雑な形式となっている。そのため、各構成体のボスニアは国家としての統一性に欠けているという見解もある。
デイトン合意は、できるだけ早く紛争に決着をつけることでさらなる殺し合いを食い止めることが目的であった。しかし、自治の渇望はボスニアのセルビア系住民の多くの人にまだ根強く残っているとされる。一方で、大半のボシュニャク系住民とクロアチア系住民はボスニアの分裂を望まないとされている。
ボスニアは主権国家?
和平条約は合意されたものの、果たして3つの民族がボスニアの政治・政策決定などにおいて公平に代表されるのかという懸念が残っていた。そのため、ボスニアの政治を管理し、政治が円滑に動くことを保証する外部機関が必要とされた。デイトン合意に記述されている民主化などの和平プロセス履行を監督するために、デイトン合意で最高責任をとる国際機関が設置されることが決定された。それがボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表と上級代表事務所というものである。その任務は、「平和条約実施の管理や監督」「民間組織などの活動の調整」「紛争解決」などとされた。
しかし、1997年に上級代表のさらなる権力拡大が行われ、この国際機関の代表役を務める者には、ボスニア政治における大きな権限、いわゆる「ボン・パワー」 が与えられた。例えば、スルプスカ共和国とボスニア連邦の代表の一方または両方が政策決定を拒否した、もしくは行うことが不可能とされた場合、上級代表が代わりに決定する行政権がある。さらに上級代表の権限は「法の強制発効・削除、大統領・閣僚を含む公職者の追放及び任命、メディアに対する規制、教育カリキュラムの策定、難民・避難民への住居返還など」と幅広いものに至り、「信託統治の実験」に例えられることもある。
上級代表は、ボスニアの両国家による憲法に違反するような行為や、デイトン合意の遂行を妨げるような行為を阻止し、民主化の促進、平和と、民族の共存を促すための治安維持勢力として行動するのが務めだと主張している。しかし、これだけ権限を持ち合わせているにも関わらず、ボスニア人は上級代表者の選任過程に参加する権利がない。

シュミット上級代表(右から3人目)とアメリカの在ボスニア大使のマーフィ氏(右から2人目)(写真:Miłosz Pieńkowski / Wikimedia[CC BY 3.0 PL])
そんな中でも、2021年に上級代表として就任したクリスチアン・シュミット氏は、特に非難を浴びている人物である。就任してから議会で可決された法律や決議を積極的に阻止することが何度かあり、スルプスカ共和国の行政府にとって特に悩みの種となっている。
例えば議会が、スルプスカ共和国の行政において、ボスニアの憲法裁判所の判決を実施することを拒否すると決議した。さらに、スルプスカ共和国にある川や森などがボスニアが所有しているものではなく、構成体のスルプスカ共和国に完全所有権があるという法案が採択されたが、これも上級代表が無効にした。スルプスカ共和国はまた、上級代表の決議や法律を認めないという決定をしたが、シュミットはそれもまた無効にした。
これらの法律はいずれも、デイトン合意に反しているとシュミット氏は主張し、その上で、彼の決定に従わなければならないとスルプスカ共和国に警告を発した。さらに、シュミット氏はボスニア選挙法にも多くの変更を導入しボスニアの選挙に大幅に介入している。
しかし、スルプスカ共和国の政治家は、シュミット氏を含む上級代表の権限を否定している。このように、スルプスカ共和国と上級代表の間に激しい対立が見られる。
スルプスカ共和国の注目される人物、ミロラド・ドディク大統領
スルプスカ共和国のドディク大統領(2010年〜2018年、2022年〜現在)は、ボスニアのセルビア系住民とスルプスカ共和国の扱いに対して不満を表明し、度々ボスニアのメディアで注目を浴びている。ドディク大統領は、ボスニアの政治・行政・法制にアメリカを含む外国が介入することに反対している。アメリカの在ボスニアマイケル・マーフィ大使を継続的に批判し、ボスニアの行方はアメリカが決めるべきではなく、ボスニアに住んでいる人たちが決めるべきだと主張している。さらに、ボシュニャク系住民やイスラム教徒をめぐる発言も多い。ボシュニャク人もスルプスカ共和国を破壊した上で、ボスニアをイスラーム国にしようと図っているため、ボスニアの中でのセルビア人は危うい立場にあるといった見解だ。

スルプスカ共和国のミロラド・ドディク大統領(写真:Izbor za bolji zivot Boris Tadic / Flickr[CC BY 2.0])
特にセルビア系住民とボシュニャク系住民の対立を深刻化させているのは、2024年5月に国連総会が可決したスレブレニツァ大量虐殺の記念日を設ける決議だ。ボスニア紛争の終焉後、オランダのハーグで紛争時の戦争犯罪を裁くために、旧ユーゴスラビア戦犯法廷が設立された。そこで、紛争当時のスルプスカ共和国の大統領であったラドヴァン・カラジッチ氏や、スレブレニツァの虐殺時にセルビア人共和国軍の参謀総長を務めたラトコ・ムラディッチ氏が戦争犯罪の容疑で起訴された。また、ボスニアにセルビアから援軍を送り込んだ当時のセルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領も、スレブレニツァ虐殺を含むボスニア紛争時のジェノサイドなどの容疑で起訴され た。この3人ともが有罪となり終身刑を言い渡された。
しかし、この事件に関してボスニアのセルビア系住民とセルビア人の多くから異議が唱えられた。スレブレニツァで殺害された人数や、この事件をジェノサイドと呼ぶべきかなど、様々な疑問が投げかけられ、それがまたボシュニャク系住民の中で憤りを買っている。
今回の国連でのスレブレニツァの記念日を指定するという決議には、犯人が「セルビア人」だという言及は含まれていないのだが、この事件に関する議論はデリケートな問題であることだと認識しながら、ボスニアの民族間関係を不安定化させるような決議案をあえて作成、採択に向かわせたことを疑問視する声もある。確かに、この決議をめぐって、ドディク大統領は「我々セルビア人をジェノサイドするような人だと言う連中と同じ国には住めない」「スレブレニツァ事件は、ジェノサイドでも何でもなく、ただの間違いだった」と不満の意を述べている。
以上のようなドディク大統領の態度や発言はボスニア連邦の代表の側から批判を招いてる。セルビア系住民とボシュニャク系住民の敵対心は激化するばかりだ。

スルプスカ共和国の国旗にキスするドディク大統領(写真:Ministry of Defence of Republic of Serbia / Wikimedia[CC BY-SA 3.0])
セルビアとスルプスカ共和国の関係
ドディク大統領が主張しているように、同じ「セルビア人」であるため、セルビアとスルプスカ共和国はボスニア紛争時から現在まで密接な関係を保ってきた。ボスニア紛争時に、セルビアからボスニアのセルビア系勢力の反乱に力を貸すために援軍が送られたこともあり、ボスニアの構成を決めるデイトン合意の交渉の際にも、当時のセルビアのミロシェヴィッチ大統領がボスニアのセルビア系勢力の代表を務めた。スルプスカ共和国はまた、セルビアにとって最も重要な問題であるコソボの独立に反対している立場で、セルビアの肩を持っている。2010年に、セルビアとスルプスカ共和国の間に、「特別な並行関係に関する合意」がなされた。この関係はスルプスカ共和国がセルビアの外交政策の方針に従っていることにも表れている。
セルビアは近年、欧州連合(EU)加盟を目指している。しかし、ロシアとも民族的・宗教的・政治的に深く繋がっており、東と西の間にデリケートなバランスをとっている状況だ。ウクライナ戦争の開始時、EUからロシアに対して制裁を科すことにセルビアは拒否した。セルビアの国民でもロシアを支持する人たちが増えてきており、ロシアを支持するデモも数回開催された。セルビアのこの傾向に従い、スルプスカ共和国のドディク大統領もロシアと関係を深めることに動力を注いできた。
スルプスカ共和国の行動に対するセルビアの態度からは、紛争を恐れて分離を望んでいない立場が見える。セルビアのヴゥチッチ大統領はドディク大統領に対して、「分裂の計画は、よしてほしい」、「軍隊は招集しないでほしい」という期待を伝えたほか、欧米諸国に対しても、バルカン地域では秩序を維持するように心がけていくという約束もしているようだ。ドディク大統領はそれを肯定的に受け入れているという。今回の全セルビア人の集会においても、ヴゥチッチ大統領は、スルプスカ共和国からの代表団に向かって、「あなたたちがどうするかはあなたたちの勝手だが、私たち皆に平和が必要だということだけはくれぐれも念頭に置いてほしい」と意思を表明した。
これからのボスニアの行方は?
ボスニアは2024年3月にEUへの加盟交渉を開始し、EU加盟に向けて着実に動いている。しかし、EU加盟の条件としてボスニアから要求されている行政・法政の改革などの多くについて、3つの民族の代表が合意に辿りつかないという困難にさらされてきた。ドディク大統領の行動と発言が、EU加盟の道を大きく妨げていると、在ボスニアのマーフィ大使からも批判する発言がなされている。
デイトン合意を通してボスニアの統一性を主張し、目指してきたアメリカも西欧諸国も、ボスニアの分裂を望んでいない。セルビアも1990年代の出来事を繰り返したくないことから、再び紛争が起きるのを避けたい。

ボスニア国内のスルプスカ共和国の境界線(写真:William John Gauthier / Flickr[CC BY-SA 2.0])
ドディク大統領は、ボスニアのセルビア系住民が「セルビア人」だけの国家に住むというのは、今のところは夢に過ぎないだが、諦めずに分離を主張していくつもりのようだ。ドディク大統領によれば、ボシュニャク系住民はセルビア系住民の意思を十分に尊重せず、上級代表を含めて国外の勢力と協力しているとし、デイトン合意に反する行為を行なっているという見解を示している。そのため、スルプスカ共和国の立場としては、ボスニアの統一性をできれば保ちたいが、できなければ保たなくても良い(つまり、独立する可能性がある)という考えだ。
ドディク大統領は、この15年の間40回にもわたって、スルプスカ共和国の独立を問う国民投票を行いたいと発言している。しかし、具体的な予定はいまだに明示していない。交渉による分離には時間を要するが、するつもりは確かにあるなどといった発言も報道されている。また、アメリカでドナルド・トランプ氏が再び大統領になれば、スルプスカ共和国の独立を宣言するとも述べている。
ドディク大統領の夢見るスルプスカ共和国の独立は、不可能なことだと彼自身もわかっている、とBBCが分析している。この分析によれば、実際に独立宣言を行なっても、EUなどの反応が激しく、制裁に駆られる可能性が高い。ボスニア憲法にも構成体が独立する権利があるとは掲載されていないので、独立を宣言する者は逮捕されることも考えられる。また、同分析ではスルプスカ共和国は経済的にも厳しい状態にあり、「債務返済することができず次の日にでも国家が破産するだろう」という。ドディク大統領は実際に行動を起こすつもりはないのだが、それでも独立宣言をすることでボスニアの国内勢力や、ボスニアに干渉している勢力を脅したり問題を起こしたりすれば、スルプスカ共和国が勝手にすることが許されるのではないかと考えているかもしれない。
ドディク大統領は、これからどうするのか。何もしないで、国民投票や平和的分離の合意を準備するといった約束で終わるのか。それとも、実際に行動を起こすのか。今後も注目していきたい。
ライター:Sonja Viktorija Anić
グラフィック:Mayuko Hanafusa, Ayane Ishida
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